八咫烏神社と宇太水分神社と宇賀神社

2019年3月3日日曜日 14:28

八咫烏神社やたがらすじんじゃ宇太水分神社うだみくまりじんじゃ宇賀神社うかじんじゃはいずれも奈良県宇陀市にある、神武東征じんむとうせい神話ゆかりの神社。人に勧めたスポットばかりだが、そもそも自分が行きたくてたまらない場所ばかり。宇陀に行きたい欲が高まっていたので、嫁の許しを得て回ってきた!

珍しく奈良で連泊。ホテルで朝食を済ませ、宇陀市へと向かう。ちょこっとだけど名阪国道を走った。前に行ったときも思ったけど、宇陀って雰囲気のある山の中だよねぇ。


まずは八咫烏神社。
県道31号を南進していくと右手に鳥居が見えるので、そちらへ折れる。赤い欄干の葵橋を渡ると、奥に駐車場があった。


境内に梅の花が咲いていた。3月に入ってまだ見られるとは思ってなかったから、嬉しい。
傘を差すほどではないものの、ぱらぱらと小雨がちらつく。


拝殿からお参り。主祭神はカモタケツノミ。下鴨神社の御祭神と同じだ。ヤタガラスは、烏に姿を変えたカモタケツノミだという。記紀神話の神武東征において、神武天皇を大和へと先導した大烏がヤタガラス。宇陀もその舞台のひとつだ。
なお、八咫烏ヤタガラスの『あた』は長さの単位。古代において8以上の数字は単に、多い・大きい程度の意味。なので、八咫烏は普通より大きな烏ということ。

拝殿の裏には、真っ直ぐに延びる階段があった。隅々まで歩きたい僕は上ってみたい。嫁も行くというので、一緒に確かめてみた。


上り切った先には、鮮やかな朱が目を引く瑞垣と、本殿。ここでも柏手を打った。


階段を下りて、拝殿脇のヤタガラス像と戯れる。ヤタガラスといえばやはりサッカーなのか。
この像のように、ヤタガラスは日本サッカー協会のあの、三本足の烏のマークとしても知られるが、神話にヤタガラスが三本足だとはどこにも書いていない。三本足のイメージが付いたのは、平安中期の学者・源順みなもとのしたごうが、「太陽に棲んでいるという三足烏さんそくうって、日本書紀でいうところのヤタガラスのことだよね」と言ったことに端を発するらしい。しかし、江戸中期の学者・本居宣長もとおりのりながはきっぱりとこれを否定。
なのに神社にこんなのがあると、こっちが公式みたいだよね。
それを言い出すと、ヤタガラスとカモタケツノミの関係性はいつからか……みたいな話になりかねないので、深入りはよそう。


続いては宇太水分神社。
県道をさらに南へ進み、神社への案内板に従って細い路に入る。鳥居の前を過ぎてすぐ、参拝者専用駐車場の看板が出ているので、そのまま境内にある駐車場に停めた。
神話に出てくる宇陀を支配していた豪族が、エウカシ・オトウカシ兄弟。日本書紀には、オトウカシは菟田主水部うだのもいとりらの遠祖とある。主水もいとりは水取とも書き、飲料水のこと。水を司る役にあった彼の本拠が、ここ宇太水分神社の場所だという。

そんなわけで、ここも神武東征と関連があるんだけど、一番の見所は国宝に指定されている本殿。美しい風景は、嫁にも喜んでもらえるかなという期待もあり。
ところが嫁は、ちょっとお疲れのようす。無理しない程度に、せっかくだから本殿見てるといいよと伝え、僕は広くない境内全体を小走りで回る。


手水舎の屋根から檜皮葺ってのは凄い。苔むしているのが、なおカッコいい。


拝殿での参拝は嫁と一緒に。


奥の三棟連なっている屋根が本殿。向かって右から、第一殿にアメノミクマリ、第二殿にハヤアキヅヒコ、第三殿にクニノミクマリを、それぞれお祀りしている。水分神は水の分配を司る神で、古事記によれば、ハヤアキヅヒコの子がアメノミクマリとクニノミクマリ。ハヤアキヅヒコはイザナギ・イザナミの子だ。様式としては春日造。春日造って結構こうして連なっているものが多いな。何かしら意味があるのかも知れない。
本殿の右にあるのは摂社の春日神社と宗像神社。
第一殿の手前の小さな屋根の下にあるのが、薬の井といって、推古天皇が薬狩りの際に身を清めたと伝わる御神水だ。
具合が悪いわけではないようだけど、嫁の体力を気遣って手早く残りの末社を回った。


次の目的地は宇賀神社。これで最後にしよう。
南下を続け芳野川をまたぎ、田畑の合間に民家がぽつぽつと建つ奥地に、ひっそりとお社が鎮座している。向かいに公衆トイレがあり、その横に駐車できるスペースがあった。
えらくまた何もない辺鄙な所へ来たねって嫁に話しかけたら、人家があるだけフツーだって。確かに、この先に本当に目的地があるの?っていうような道を走ったこともあるもんね。嫁に変な耐性を付けてしまった。
このエリアの見所はロマンだけだし、また小雨が降りだしたので、その嫁には車で休んでいてもらうことに。


拝殿にて拝礼してから、本殿を拝む。
御祭神はオトウカシとされる。神武天皇に恭順するか問われ、騙し討ちしようとして誅されたエウカシと、兄の企みを密告し従ったオトウカシ。真っ当に考えれば、神武側に付いたオトウカシが祀られているのは自然なこと。
だけど、かつてはエウカシが祀られていたとしても、おかしくない。エウカシはいわば朝敵だけど、地元で愛されていたというのは十分あり得る話で、そうだったらいいなとさえ思う。そんなことを考えていたからか、いつもより長めに手を合わせていた。

神話についておさらいしておこう。
宇陀にはエウカシ・オトウカシがいた。神武天皇一行はヤタガラスを遣わせて、二人に神武に仕えるか問う。エウカシは従うと見せかけて、大殿おおとのを造り、中に押機おしという罠を仕掛けた。オトウカシは兄が罠で待ち構えていることを伝える。エウカシは神武の使いに迫られ、自らの罠に打たれて死ぬ。さらに、エウカシの体は引き出されて切り刻まれる。彼の血で染まったそこを、宇陀の血原ちはらと呼んだ。

宇賀神社を出て南にある、宇賀志川に架かる橋の名がまさに、血原橋。このあたりが血原ということだ。


橋を渡り、道なりに坂を登っていくと、大殿の伝承地がある。ここでエウカシは命を落としたと。
こうして神話と現在がリンクしているのって、ロマンがあって好き。エピソードとしては、むごたらしいけど。

さあ帰ろう。と、南阪奈道路に向けて走っていたら、地名が、忍坂おしさかだ、今度は磐余いわれだってんで、反応しまくりだった。神武の大和入りコースじゃないか。奈良はやっぱズルいわぁ……地名だけで興奮する。

ちょっと駆け足になっちゃったけど、エウカシ・オトウカシゆかりの地を巡れた。神武東征を辿ろうとすると、まだまだたくさんあるんだよね。時間を作って山登り(山頂にもある)もしたい。
それにしても、毎度毎度、嫁には付き合ってくれてありがとうだよ。

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