熊野速玉大社 水の気配の中で

2026年3月31日火曜日 15:17
熊野三山のひとつ、熊野速玉大社くまのはやたまたいしゃを訪れたよ。熊野川の河口近く、和歌山県新宮市新宮に鎮座するこの社は、海と川とが交わる場所に開かれている。
これから巡っていく熊野の社の中でも、ここはどこか開かれた印象がある。山の奥へと分け入っていく本宮や那智とは対照的に、人の営みのすぐそばにありながら、古くから信仰を集めてきた場所なんだよね。
この地を起点に、熊野という土地がどのように見られ、語られてきたのかを、順を追ってたどっていこう。

考察は後続記事に譲り、ここでは熊野三山の根本縁起に触れておく。『長寛勘文ちょうかんかんもん(長寬元年(1163)藤原永範ふじわらのながのり)』所引の『熊野権現御垂跡縁起』には、次のように記されている。

熊野権現御垂跡縁起云。往昔甲寅年唐〈乃〉天台山〈乃〉王子信旧跡也。日本国鎮西日子〈乃〉山峯雨降給。其体八角〈奈留〉水精〈乃〉石。高〈佐〉三尺六寸〈奈留仁天。〉天下給〈布〉。次五ヶ年〈乎〉経〈天〉。戊午年伊予国〈乃〉石鉄〈乃〉峯〈仁〉渡給。次六年〈乎〉経〈弖〉。甲子年淡路国〈乃〉遊鶴羽〈乃〉峯〈仁〉渡給。次六箇年過。庚午年三月廿三日紀伊国無漏郡切部山〈乃〉西〈乃〉海〈乃〉北〈乃〉岸〈乃〉玉那木〈乃〉淵〈農〉上〈乃〉松木本渡給。次五十七年〈乎〉過。庚午年三月廿三日熊野新宮〈乃〉南〈農〉神藏峯降給。次六十一年庚午年新宮〈乃〉東〈農〉阿須加〈乃〉社〈乃〉北石淵〈乃〉谷〈仁〉勧語静奉〈津留〉。始結玉家津美御子〈登〉申。二宇社也。次十三年〈乎〉過弖。壬午年本宮大湯原一位木。三本〈乃〉末三枚。月形〈仁天〉天降給。八箇年〈於〉経。庚寅〈農〉年石多河〈乃〉南河內〈乃〉住人熊野部于与定〈土〉云大飼。猪長一丈五尺〈奈留〉射。跡追尋〈弖〉石多河〈於〉上行。犬猪〈乃〉跡〈於〉聞〈弖〉行〈仁〉。大湯原行〈弖〉。件猪〈乃〉一位〈農〉木〈乃〉本〈仁〉死伏〈世和〉。宍〈於〉取〈弖〉食。件木下〈仁〉一宿〈於〉経〈弖〉。木〈農〉末月〈乎〉見付〈弖〉。問中〈具〉。何月虚空〈於〉離〈弖〉木〈乃〉末〈仁波〉御坐〈止〉申〈仁〉。月犬飼〈仁〉答仰云。我〈乎波〉熊野三所権現〈止所〉申。一社〈乎〉証誠大菩薩〈土〉申。今二枚月〈乎者〉両所権現〈土奈牟〉申仰給〈布〉。

解釈には諸説あるが、参考までに一説を補いつつ、現代語訳を示しておこう。
昔、甲寅の年、唐の天台山は王子信(王子晋)ゆかりの地であった。日本の鎮西(九州)の日子の山の峯(英彦山)に雨として降りなさった。その姿は八角形の水晶の石で、高さは3尺6寸あり、天から降りなさった。次に5年を経て、戊午の年、伊予国の石鉄の峯(石槌山)に渡りなさった。次に6年を経て、甲子の年、淡路国の遊鶴羽の峯(諭鶴羽山)に渡りなさった。次に6年を過ぎて、庚午の年3月23日、紀伊国牟婁郡切部山(切目王子)の西の海の北の岸の、玉那木の淵の上の松の木のもとに渡りなさった。
次に57年を過ぎて、庚午の年3月23日、熊野新宮の南の神蔵峯(神倉山かみくらやま)に降りなさった。
次に61年、庚午の年、新宮の東の阿須加の社(阿須賀神社あすかじんじゃ)の北、石淵の谷に勧請して鎮まり奉った。
はじめて「結玉家津美御子(結(夫須美ふすみ)玉(速玉はやたま)家津御子)」と申した。二宇の社であった。
次に13年を過ぎて、壬午の年、本宮の大湯原(大斎原おおゆのはら)の一位の木、3本の梢に、3枚の月の形となって天降りなさった。
8年を経て、庚寅の年、石多河(石田川)の南、河内の住人、熊野部于与定という犬飼(猟師)が、長さ1丈5尺もの猪を射た。跡を追い尋ねて、石多河を遡った。犬が猪の跡を追って行くと、大湯原へ行き着き、その猪は一位の木のもとに死に伏していた。肉を取って食べた。
その木の下で一夜を過ごして、木の梢に月を見つけて、問い申し上げた。「どうして月が虚空を離れて木の梢にいらっしゃるのか」と申すと、月は犬飼に答えて仰せになった。「我こそが熊野三所権現というのである。1社を証誠大菩薩と申す。今2枚の月は両所権現と申す」と仰せられた。

熊野権現が諸山を経て神倉山に降臨し、のちに阿須賀へと移り、やがて本宮へ至る過程が語られている。要点だけを拾えば、熊野における最初の降臨地が神倉山であり、そこから祭祀の場が整えられていった、という流れになる。
すなわち、神倉神社が元宮であり、そこから遷った熊野速玉大社が「新宮」と呼ばれるゆえんだ。

さて、本宮の温泉宿を出発した僕らは、新宮の町を目指して熊野川沿いの国道を走る。
雨が降りしきる中、車窓から眺める熊野川はどこか神秘的。その流れの奥には幾重にも連なる山々が控え、そこから立ちのぼる霧がゆっくりと谷を満たしていく。
水と山とが、境目を曖昧にしながらひとつに溶け合っていくような光景だ。そのただ中にある熊野川は、単なる川というよりも、この土地全体を貫く大きな存在として感じられる。
こうした風景の中に身を置いていると、古代の人々がこの流れに神の気配を見出したとしても、不思議なことではないように思えてくるね。大雨という熊野らしい洗礼を浴びたことで、得られた感触だ。

まずはランチのため、新宮駅近くへ向かう。ところが、紀勢本線の踏切付近でカーナビの位置情報がずれ、気づけば路地に迷い込んでいた。どうにか抜け出して徐福公園駐車場を目指したものの、西側はチェーンで閉鎖されている。あとから思えば北側から入れたのかもしれないが、その場ではそこまで気が回らない。
やむなく路肩に寄せて思案し、先ほど見かけたコインパーキングへ向かうことにした。結果として少し駅から離れることにはなったけど、無事に駐車することができた。こういう小さな判断の積み重ねも、旅らしさの一部かもしれないなぁ。
二人それぞれ傘を差して駅へ向かうが、雨に加えて風も強く、時折足を止められるほどだった。

ようやく『徐福寿司』駅前店にたどり着く。こぢんまりとした店内はすでにほぼ満席だ。
自動ドアを開けて中に入っても、誰も案内をしてくれない。そこで嫁が席が空いているか尋ねると、ようやく奥の座敷に通された。
そのあとやってきた二人組は満席で断られていたので、かなりいいタイミングで入れたようだ。

やれやれと落ち着いて座布団に座ったら、熊野新宮名物「さんま姿寿司」と「特製玉子巻寿司」を注文。やはり名物は食べておかないとね。
どちらも大将が運んできてくれて、そのままどうぞとのこと。はきはきとして気持ちのいい応対だ。
姿寿司は頭も尾ヒレもついていて見た目の楽しさもあり、玉子巻は素朴でやさしい味わいだった。観光地の名物というより、この土地の日常に根ざした味に近い。

食事を終え、熊野速玉大社の参拝者駐車場へ向かう。この天候でも車は少なくなく、巡礼の地であることを改めて感じさせられる。

鳥居をくぐり、右手の八咫烏やたがらす神社や鑰宮かぎのみや手力男たぢからお神社を横目に進むと、熊野速玉大社参詣曼荼羅の案内板が立っていた。世界遺産登録を記念したものらしく、新しいんだね。

手水舎で心身を清め、神門をくぐる。雨は「歓迎」とも言われるけど、ここまで激しいとさすがに考えてしまう。

向かって左手の拝殿から、結宮(第一殿)と速玉宮(第二殿)を拝礼。御祭神はそれぞれ熊野夫須美大神くまのふすみのおおかみ熊野速玉大神くまのはやたまのおおかみ

熊野御幸の回数を刻んだ六曲屏風のような石碑など、神門内には他にも見どころがあったけど、両手で傘を支えながらでは、最小限の記録を残すので精一杯。

こんな日だからこそ、屋内施設に行っておこうと思っていたのに、熊野神宝館は休館日。
熊野夫須美大神と熊野速玉大神の御神像は夫婦神とみられ、熊野信仰の当時の理解を示す興味深いものだったのだけど、残念。これは縁がなかったということにしておこう。

続いては阿須賀神社へ。こちらも数台の車が停まっており、この天候でも巡っている人がいることに少し驚かされる。
神武天皇聖蹟碑を確かめるのが主目的ということもあり、嫁には車内で待機してもらい、足早に参拝を済ませた。

この日最後に訪れたのも、神武天皇聖蹟碑。『スーパーセンターオークワ』南紀店の南、国道42号線沿いにある。
本来であれば神倉神社にも足を延ばす予定だったけど、この雨では石段を登るのは難しい。熊野の神武天皇神話についてはそちらの記事で詳述するつもりなので、聖蹟碑についてもその時に紹介しようと思う。

結局、この日は予定していた場所を順に巡るだけになってしまった。最後には水たまりで靴下まで濡らしてしまい、どこか締まりのない終わり方でもある。
ただ、それでも一つだけ確かに残ったものがある。熊野川を見たときに感じた、あの感覚だ。この土地では、山と水とがひとつの気配として立ち上がってくる。
その中心にあるものが何なのかを確かめるために、改めて神倉神社へ向かう必要があるのだと思ったよ。

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