七里の渡しにヤマトタケル東征を重ねて

2025年7月19日土曜日 19:49
七里の渡しは、東海道五十三次の宮宿みやじゅく(名古屋市熱田区)から桑名宿くわなじゅく(三重県桑名市)までの海路で、名称は距離が7里(約28km)だったことに由来する。官道として使われたが、天候による海難事故も多く、東海道の難所とされた。宮宿・桑名宿の両渡船場は旅籠が多く賑わい、現在はそれぞれ公園などとして整備されている。桑名側には「伊勢国一の鳥居」も設置されている。
伊勢参宮が大好きな身として、伊勢の国への玄関口は一度行ってみたかった。それに、伊勢湾を航行した渡し船のルートは、ヤマトタケルの東征とも重なる可能性がある。二つのロマンを追って行ってきたよ。

『古事記』には、ヤマトタケルが草薙剣をミヤズヒメに預けて伊吹山に登る途中、白いイノシシを神の使いと言い見逃したが、それは神自身であり、軽々しく言葉にしたために神に惑わされ、雹に打たれて苦しめられたという。下山してからのルートについては、
  1. 自其地発、到当芸野上之時、詔者、吾心恒念自虚翔行。然今吾足不得歩、成当芸当芸斯玖。故、号其地謂当芸也。
  2. 自其地差少幸行、因甚疲衝御杖稍歩。故、号其地謂杖衝坂也。
  3. 到坐尾津前一松之許、先御食之時、所忘其地御刀、不失猶有。
  4. 自其地幸、到三重村之時、亦詔之、吾足如三重勾而甚疲。故、号其地謂三重。
  5. 自其幸行而、到能煩野之時、思国以歌曰、
※番号は引用者による追記
とある。これを整理すると、

当芸野たぎの杖衝坂つえつきざか尾津前おづのさき三重村みえのむら能煩野のぼの

となる。この順路について、物語の文脈としてはともかく、地理的におかしいという指摘がある。杖衝坂などの比定地に諸説あるため、何をもって正しいとするか難しいところ。
ここはひとまず、宣長先輩の『古事記伝』の解釈に従っておこう。(2)は(4)の後にあったものが誤って紛れ込んだのではないか。「差少幸行ややすこしいでます」とあるのも、三重から今にいう杖衝坂までがほど近いのに、よく合っている。古の伊勢から東国へ向かう大道は、尾津のあたりまで来て木曽川の川尻を渡って尾張の津島のあたりを経て、年魚市県あゆちのあがた(現在の名古屋市熱田区あたり)に至る。当芸野のあたりまでは尾張のミヤズヒメのもとに帰ろうと思われていたが、身体の疲労がますます耐え難いままなので、故郷を恋しく思う心が湧き起こって(「思国」の歌があることからも窺える)尾張へは帰らず、倭に帰ろうと思われて、伊勢へ赴かれたに違いない。伊勢から伊賀を経て倭に至る。と主張している。
時代が下って近世のことではあるけど、東海道において宮宿と桑名宿は海路で結ばれていた。古代においても伊勢湾を横断することがあったとされる。「尾津」の「津」は港の意であり、地形からしても港に適している。ヤマトタケルも、往路では伊勢・尾張間は海を渡っただろうし、帰路も港を一度は目指したとみて差し支えない。
だとすれば、

・当芸野 → 尾津前 → 三重村 → 杖衝坂 → 能煩野

というルートが、整合的といえる。
ヤマトタケルと伊勢神宮の関係性が希薄であることは、草薙剣について調べて判ったけど、この最後にたどった道程は伊勢の具体的な地名に富んでいて、在地伝承の色が濃いように思う。伊勢神宮とは関係が無いにしても、伊勢の国――それも神宮のある南ではなく北伊勢――には、ヤマトタケル伝説の元となった説話が根付いていたんだろうね。

さてさて、熱田神宮の参拝を終えたあと、正門をくぐって南下。
すると、こんな朝から行列のできているお店が目に入った。『あつた蓬莱軒』神宮店だ。スゴい人気なんだなと軽く調べたら、「ひつまぶし」発祥のお店らしい。なごやめしの代表格を名店で、と求める人が多いから列を成しているということか。
同料理の発祥については諸説あるのでそれはさておき、店名のほうが気になった。蓬莱ほうらいといえば、熱田神宮は蓬莱の島であるという伝説がある。それが由来だろう。蓬莱伝説については熱田神宮境内のパネルで紹介されていたし、『熱田宮秘釈見聞』に、
此熱田宮蓬莱島云
『渓嵐拾葉集』に、
其蓬莱宮者、我国今熱田明神是也。
などとある。粋なネーミングだねぇ。熱田神宮南歩道橋を渡った南には本店があり、こちらも多くの人が暑い陽射しの下、並んでいた。

ちょうど店舗前から南西に延びる道が、旧東海道。道幅が如何にも旧道らしい趣き。
東海道といえば『東海道中膝栗毛』。足下には弥次さん北さんと思しきイラストが。

桟橋へと続く道の交差点には、「東海道」を書かれた低い標柱もあった。

その先に、七里の渡し舟着場跡。1983年に復元されたらしい。この常夜灯は、現地の案内板によれば、寛永二年(1625)、尾張藩家老・成瀬正虎が建立したとのこと。その後色々あって荒廃していたものを、1955年に復元したそうだ。ということは、常夜灯だけがぽつんとあった所を、約30年後に一帯を公園として整備したのか。

常夜灯の隣の鐘楼は「時の鐘」。銅製案内板によれば、延宝四年(1676)、尾張2代藩主・徳川光友の命により設置されたとのこと。戦災で焼失し、こちらも1983年の復元だ。
宮から徒歩圏内とあってか、自分たち以外にも観光客がちらほら。
この辺りを神戸ごうどの浜といい、現在の地名にも熱田区神戸町として残っている。「かんべ」でも「こうべ」でもなく「ごうど」。そんな読み方もするんだね。
渡船場の前に広がっているのは、海ではなく埋め立てで延伸された堀川。往時の「熱田湊」の風景を思い浮かべるのは、想像をたくましくしなければ難しい。だけど、復元建築がそれを助けてくれる。
川を横断する橋の上を、東海道新幹線が走り抜けていくのが見えた。

熱田神宮の南神池みなみしんいけ周辺を新たに整備した「くさなぎ広場」は、「熱田湊」をイメージしたデザインらしい。それで舟のオブジェなのね。当時の隆盛を偲ぶのは、地元民共通の想いなのかな。

宮の渡しから道路を挟んだ向かいには、旧旅籠屋「伊勢久」の復元。2023年・2024年の修理事業というから、つい最近だなぁ。こうやって少しでも整えられていくの、なんか嬉しいね。

ガソリンスタンドに寄って給油して、ランチしてプラネタリウム見て、いよいよ名古屋とはお別れ。桑名の渡しへは渡し船で、というわけにはいかないので、白川ICから名古屋高速に乗り、分岐を東名阪道方面に進む。すると、車線規制の影響で渋滞していた。弥富ICまで、完全に停車することがあるほどノロノロ運転。時計を気にしてはいなかったけど、思っていたより時間を食われた。

長島ICで下り、伊勢大橋で長良川と揖斐川を越えて、桑名七里の渡し公園暫定駐車場へ。名称に暫定と付くけど、特定の平日月曜など以外は、時間内であれば利用できるようだ。

三の丸公園の芝生の中を北へ突っ切ると、蟠龍櫓ばんりゅうやぐら。こう見えて揖斐川の水門統合管理所で、景観に配慮し、かつてこの地に建っていた桑名城の隅櫓・蟠龍櫓の外観を復元するかたちで設計されたらしい。単なる復元建築ではなく、実利を伴っているところが面白い。
しかも、2階展望室は一般開放されている。せっかくなので入ってみよう。

所詮2階なので大した眺望は得られなかったけど、空調が効いていて有り難い。また、『文政八年渡海路絵図』などがパネル展示されていた。北が下を向いているので方位が現代人には直観的でなく、文字の向きも天地がひっくり返っていたりしているうえ、照明が反射して、全体的に読みづらい。どうにか左端に「宮宿」、右下あたりに桑名城と福島に挟まれた「桑名宿」を発見。満潮と干潮によって航路や所要時間が変わることが図示されているらしいけど、赤い線がソレかな。
ところで、係員さんに熱心に質問している男性がいたなぁ。公園も観光客が何組か歩いていたし、七里の渡しは史跡あるいは観光地として、それなりに認知されているんだね。「ブラタモリ」効果もあるだろうか。

櫓を出て七里の渡跡へ。伊勢湾台風を契機に堤防が築かれたため、ここも江戸時代の面影は薄い。水が濁っているのは、先日の大雨の余波だろう。

堤防の切れ目から望む対岸正面の赤い建物は長島排水機場だから、左に見切れているシルバーの屋根がなばなの里ベゴニアガーデンだね。花の季節になったらまた行きたいな。

そして、旧東海道が陸路へと戻る入口にそびえるのは「伊勢国一の鳥居」。初めて鳥居が建てられたのが天明年間(1781~1789)というから、その起源は存外新しい。伊勢神宮への群参が「おかげまゐり」と呼ばれるようになる明和八年(1771)より後なんだね。
ヤマトタケルが立ち寄った「尾津前」伝承地は、ここから北西10kmほどのところ。少し離れているけど、伊勢湾を渡ったかもしれない彼に思いを馳せるのに、宮の渡しとを結ぶ桑名の渡しも、悪くないと思う。

帰路に就く前に休息をと思い、『永餅屋老舗』の安永餅を求めて、歩いてすぐの『柿安』吉之丸本店へ。ところがなんと売り切れ。当てが外れた。しょげて帰ることに。せめて別の物でも良いから一服だけはしておけば良かった、と帰宅後の疲れのひどさに後悔したけど。

悪天候で当初の計画から変更したけど、そのお陰で暑い季節の割にはマシに過ごせた時間が多かったし、結果的に名古屋の定番観光地を巡ることになった。たまにはこういうのもいいね。

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