石上神宮はかつて伊勢神宮と並ぶほど特別だった
2025年5月23日金曜日
12:56

あれこれ知識武装したうえで、8年ぶりに参拝してきたよ!午後から奈良博の超国宝展で七支刀の実物を拝観するつもりなので、そのイントロダクションでもある。
石上神宮は、鹿島神と香取神について整理した際に触れた通り、天皇が奉斎する神宮とされる。
時代が進んで天武天皇三年八月庚辰条には、
遣忍壁皇子於石上神宮、以膏油瑩神宝。即日勅曰、元来諸家貯於神府宝物、今皆還其子孫。
石上神宮に納められた神宝は、元々は豪族たちの権威を象徴するもの。それを天皇が所有しているので、諸豪族を支配することが可能になるという、呪術的な宗教観を古代の人々は有していたと考えられる。だから、丁寧にお祀りする必要があったわけだ。
中でも刀剣は神宝の中心的な存在。国譲りの場面や熊の毒気から神武天皇を救う活躍をみせたフツノミタマノツルギ、ヤマトタケルに勝利をもたらし続けた草薙剣などがまさにそれ。いずれも武器としてではなく呪術的な力を秘めた宝器としての側面が強く出ている。イニシキ皇子が納めた剣も、実用的な武器だったとは断定できない。
また、剣と蛇は同一視され、蛇身をもつ雷神をも表象するとされる。草薙剣はヤマタノオロチの尾から出てくるし、オロチを斬った剣は
刀剣に話題が及んだところで、フツノミタマの「フツ」の意味にも触れておきたい。宣長先輩が『古事記伝』で、
今の世の言にも、物のと唱えていることに従い、物を「フツ」と切り離すさまとするのが半ば通説化している。残 なく清く断 れ離 るる貌 を、布都 と云り、〈布都理 など云り、狭衣にふつと見はなつともあり、〉然れば此剣の利 して、物を清く断離 つ意を以称 へつる御名なるべし。
でもこれだと、八咫鏡の別名「
刀剣が物を斬れるのは霊威の表れだ、と考えられていたんじゃないかな。古代の人々の感覚って、なかなかロマンティック。
石上神宮は、王権にとって重要な神宝を納める「神府」だった。でもそれだけじゃあない。履中天皇が即位前の皇太子だったときに、
ちょっと脱線するんだけど、阿閇国見が石上神宮に隠れたのは、石上神宮が
閑話休題。『古事記』神武段には、タケミカヅチが国譲りに使用した太刀を神武天皇に授ける話に、
此刀名、云佐士布都神、亦名云甕布都神、亦名云布都御魂。此刀者、坐石上神宮也。この刀の名は、サジフツ神といい、またの名はミカフツ神といい、またの名はフツノミタマという、この刀は石上神宮に鎮座している、との割注が付いている。
また、『日本書紀』垂仁天皇三十九年十月条に、
五十瓊敷命、居於茅渟菟砥川上宮、作剣一千口。……蔵于石上神宮也。イニシキ皇子が
其一千口大刀者、蔵于忍坂邑。然後、従忍坂移之、蔵于石上神宮。是時、神乞之言、春日臣族、名市河令治。因以命市河令治。是今物部首之始祖也。その一千口の太刀を
記紀以外に目を向けてみると、『先代旧事本紀』天孫本紀には、
弟伊香色雄命イカガシコオは、崇神天皇の御代に、フツ大神の社を大倭国の山辺郡の石上村に移して建てた。天つ神の先祖がニギハヤヒに授けて天から受け継いだ、天孫の証しとなる瑞宝を同じ場所に共に納め、石上大神と名づけた。国家のため、また氏神として祀り、鎮守としたとある。
……磯城瑞籬宮御宇天皇御世……遷建布都大神社於大倭国山辺郡石上邑。則天祖授饒速日尊、天受来天璽瑞宝、同共蔵斎、号曰石上大神。以為国家亦為氏神崇祠為鎮。
石上神宮の起源について、『旧事紀』は崇神天皇年代と主張としている。『日本書紀』では垂仁天皇三十九年に剣を納めたとあるだけで、すでに石上神宮が存在したとも読めるため、これらの記事は矛盾しない。伊勢神宮創建が垂仁天皇年代なので、石上神宮は日本最古の神宮といえるわけだ。
ではなぜ物部連に委ねたのか。それは、彼らが鎮魂の呪術のプロフェッショナルだったためと考えられる。鎮魂はタマフリともタマシヅメとも読む。
『旧事紀』天神本紀に、
天神御祖詔、授天璽瑞宝十種。……天神御祖教詔曰、若有痛処者、令茲十宝謂一二三四五六七八九十而布瑠部、由良由良止布留部。如此為之者、死人反生矣。是則所謂布留之言本矣。天つ神の先祖は、
石上神宮には、諸豪族から献上された霊威を秘めた神宝が、多数納められている。それらが時に荒ぶれば鎮め、時に弱れば奮わせることができるからこそ、物部連に託されたといえる。
物部は物部でも、物部連と上下関係にあって、神宝の管理に当たったとみられる春日臣系の物部首。『新撰姓氏録』大和国・皇別の
大鷦鷯天皇御世、達倭賀布都努斯神社、於石上郷布瑠村、高庭之地。以市川臣、為神主。……失臣姓為物部首。……天武天皇御世、依社地名改布瑠宿祢姓。仁徳天皇の御代に、
春日臣系についてみていくと、『日本書紀』孝昭天皇六十八年正月庚子条は、
天足彦国押人命此和珥臣等始祖也。アメタラシヒコオシヒトは、
兄天押帯日子命者、〈春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壱比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢飯高君、壱師君、近淡海国造之祖也。〉と、春日臣など16氏を挙げている。さらに、『姓氏録』左京・皇別の
于時大鷦鷯天皇臨幸其家、詔号糟垣臣。後改為春日臣。ある時、仁徳天皇がその家に行幸され、
それはともかく、市川臣を物部首に改姓してまで「物部」を石上神宮の管理に当たらせたのは、やはり神宝と向き合えるだけの呪術に長けた集団である必要があったからと、考えられる。
ちなみに、古代において人間に宿る霊魂はタマ、それ以外に宿る霊魂はモノとされる。モノノベの「モノ」がまさにこれだね。モノノケ(物の怪)の意味もこれで理解できる。
王権による宗教的支配を保証する存在だった石上神宮。律令支配体制が確立されると、その意義が薄まっていったようだ。
さらにターニングポイントとなったのが、平安遷都。『日本後紀』延暦二十三年二月庚戌条に、大和国の石上社の武器を山城国の葛野郡に運び移したとある。都が山城国に遷ったことで石上神宮から遠くなったので、神宮から神宝を移したということだろう。ところが翌年の二月庚戌条、布留宿祢高庭が朝廷に訴えを申し出てからの経緯に、こう記されている。神宮に使える百姓たちが、神さまがしきりに音の鳴る矢を放っておられるので、不吉な前兆ではないかと恐れているという。それでも占いの結果は吉だったので神宝を運ぼうとしたところ、異変が起きた。その後天皇のご体調がすぐれなくなり、巫女が神託を受けると、神さまが怒っているとのこと。それで結局、石上神社に武器を返納した、と。
こうして石上神宮と王権の関係は疎遠になり、地域に根ざした神社としての性格が濃くなっていった、というわけか。
100年後の『延喜式』「神名式」の大和国山辺郡には、
石上坐布都御魂神社〈名神大。月次相甞新甞。〉とあり、「神宮」号ではなくなっていることも示唆的。都から距離が離れていながらも、今日まで皇室との密接な関係が続く伊勢神宮とは、対照的だよね……。
それでも、だ。七支刀や鉄盾といった宝物が千年以上もの間受け継がれてきたのは、地元の人々の深い崇敬の証しであり、その信仰の尊さは計り知れない。

まずは、なら歴史芸術文化村。文化財4分野の修理作業現場を公開していて、平日なら技術者による作業を見学できる施設があるのだ。天理方面に平日訪れる機会を作れずにいたんだけど、ようやくそれが叶えられた。
情報発信棟でお手洗いを済ませたら、文化財修復・展示棟へ。普段親しんでいる歴史的建造物や考古遺物、それらの修復工房を見られるとあって、期待に胸を膨らませていた。が、ちょっと肩透かしを食ったかな。技術者さんはいらっしゃったものの、手元で何をしているのか分からなかった。復元途中の埴輪がクリップで仮止めされていたりとか、興味深いものもあるにはあったけどね。14時からの見学ツアーに参加したほうが良かったのかなぁ。
ただ、特別展「修理完成記念 野迫川村平区の仏像」は面白かった。どんな傷みがあってどのように修理して結果どうなったのか、とても理解しやすく展示されていて、仏像観賞に新たな視点をもらえた思いがする。
それにしても、ここら辺にたくさん飛んでいるあの小さい虫は、何なんだろうね。ぎょっとするほど無数にいるし、天理のイメージにコレが刷り込まれている。








車の数で判っていたことだけど、参拝客が多いね~。授与所の前には人だかりができていた。僕は僕で七支刀モチーフのネクタイピンに心が揺れたけど、ネクタイ締めるの年に数えるほどなんだよな……。

リュックを背負ったインバウンド客の団体が、




どの皿も彩りが奇麗で、シェフのセンスが光る。料理は目でも楽しみたいものね。お味のほうは割とオーソドックスというか、もうひと捻り欲しいかな。これは好みの問題だと思うけど。
接客もそつがなくて良かった。心地よく過ごせたし美味しかったから、この辺りで食事するとなったら最右翼。ごちそうさまでした。
同じものを見ても違った見方、感じ方をしたし、前は目に入らなかったものが気になったりもした。イソノカミが郷名だという、ごく基本的なことも知らなかった昔を思えば、多少なりとも成長を実感できた。
超国宝展観賞が先にあって、石上神宮を合わせる旅程を組んだわけだけど、再訪の機が熟していたんだなぁ。
【参考文献】
篠川賢「石上神宮神宝伝承小考」『日本常民文化紀要 (27)』成城大学大学院文学研究科,2009年
野田嶺志「物部氏に関する基礎的考察」『史林 (51-2)』史学研究会,1968年
平林章仁『物部氏と石上神宮の古代史』和泉書院,2019年
松前健「鎮魂祭の原像と形成」『古代伝承と宮廷祭祀』塙書房,1974年
篠川賢「石上神宮神宝伝承小考」『日本常民文化紀要 (27)』成城大学大学院文学研究科,2009年
野田嶺志「物部氏に関する基礎的考察」『史林 (51-2)』史学研究会,1968年
平林章仁『物部氏と石上神宮の古代史』和泉書院,2019年
松前健「鎮魂祭の原像と形成」『古代伝承と宮廷祭祀』塙書房,1974年