鶴林寺は古文化財の宝庫だった

2023年4月1日土曜日 20:59

鶴林寺かくりんじは、兵庫県加古川市にある天台宗の寺。山号は刀田山とたさん。聖徳太子が秦河勝はたのかわかつに命じて建立させたことに始まるという。播磨における太子信仰といえば、太子町に斑鳩寺があり、東の鶴林寺・西の斑鳩寺はそれぞれ「刀田の太子さん」・「鵤の太子さん」と呼ばれ、親しまれている。また鶴林寺は「播磨の法隆寺」ともいわれ、凄いらしいとは聞いていたけど、本当に凄かった!

その凄さに触れる前に、例によって由緒をまとめておこう。
大宝二年(702)に沙門聖乗が記したという奥書をもつ『鶴林寺聖霊院縁起』によれば、
敏達天皇十四年(585)、物部氏ら廃仏派によって流された高麗の僧・恵便えべんを、聖徳太子が僧院の住職として招き、その教えを受けた。また、百済から来朝した日羅にちらも当寺に住んだ。用明天皇二年(587)に聖徳太子が、秦河勝に命じて三間四面の精舎を建立し、自ら釈迦三尊と四天王の像を彫り、内陣の四本の柱に童子の絵を描いた。山号を「刀田山」という由来は、百済に帰ろうとする日羅を、聖徳太子が神通力で数万もの刀を田に逆さまに立てて妨げ、恐れをなした日羅に帰国を断念させたことによる。
という。
寺伝によれば、
もと四天王聖霊院と称し、養老二年(718)に武蔵国の大守・大目(第四等の地方官)・身人部春則むとべのはるのりが本願となって七堂伽藍を建立し、刀田山四天王寺と寺号を改めた。さらに鳥羽天皇の時(1107~1123)、勅願所となって寺号を鶴林寺に改めた。
という。

天平十九年(747)の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』に、「合庄庄倉捌拾肆口」の内訳として「播磨国参処」があり、「明石郡一処・賀古郡一処・揖保郡一処」を挙げている。この「賀古郡」の地が、鶴林寺と関係があるとする。
『日本書紀』には、
推古天皇十四年(606)、聖徳太子が推古天皇に法華経を講義した褒美に、播磨国の水田百町を贈られて、太子はこれを法隆寺に納めた。
とある。上述のとは別の天平宝字五年(761)の『法隆寺縁起并資財帳』に、「墾田」の内「播磨国賀古郡一百町」について「講法花経料」とあり、『日本書紀』の記述と符合する。

当寺に伝わる文書として、文永五年(1268)の『左衛門尉某・大法師某供料米寄進状』がある。この端裏書の『大講堂六禅衆供田御下知状』には、
当寺本願は行基菩薩で、行基が薬師尊像を自刻して大講堂に安置した。
とある。聖徳太子創建には、ちっとも言及していないのがポイント。

創建時の住職とされる恵便(恵弁とも)という僧は、『日本書紀』にもみえる。
敏達天皇十三年(584)、蘇我馬子が全国から修行者を探させたところ、播磨国に還俗した僧、高麗人の恵便という人がいた。馬子はその人を仏法の師とし、司馬達等の娘を出家させて善信尼といった。
という。奈良の元興寺縁起に繋がる話に、登場するわけだ。
他に恵便伝承のある寺院が、『峰相記』・『播磨鑑』といった播磨一円の地誌や『播州増位山随願寺集記』に、増位山随願寺、青嶺山奥山寺、六道山遍照院などいくつも載っている。

これら縁起について『兵庫県史』では、聖徳太子草創も、養老二年の年代や武蔵国大目の肩書も、どれも後付けと断じている。平安後期、当地の土豪であった身人部春則なる者が発願建立したのが、実際のところだろうと。当時、律令制地方政治が乱れ、地方官の官職の売買が行われたそうで、土豪として豊かな経済力を持っていた身人部春則が、この肩書を買い取った、と推測している。
考古学的見地からも、現在の寺域から飛鳥時代はおろか、奈良時代にまで遡り得る古瓦がまったく発見されておらず、当地には奈良時代に寺院は存在しなかったことが、示されている。

寺伝をそのまま史実と信じるのは難しいかもしれない。なにせ聖徳太子開創とする仏寺は全国的に多いし、播磨においては恵便法師が創建に関わる伝承も複数ある。
ただし、だ。『資財帳』から計算すると、播磨国の水田は法隆寺領水田のなんと6割を占める。また『播磨国風土記』には、渡来人にまつわる説話がたくさん残されている。播磨国と法隆寺が密接な関係にあったのは間違いないし、仏教公伝以前から渡来系の進んだ文化の根付いた土地だったと考えられる。これは鶴林寺に限らず斑鳩寺にもいえるけど、太子信仰を醸成するだけの素地は、十分にあったんじゃないかな。

さてさて、各地の桜が満開を迎えた快晴の週末、運動を兼ねて徒歩で、嫁と二人お花見に出かけることにした。賀古の駅家の北に位置する教信寺で、気の済むまで桜花を堪能したあと、鶴林寺公園まで足を延ばしてみた。桜の木の下は、思い思いにレジャーシートを広げる人たちで賑わっていた。
せっかくだから鶴林寺を拝観してもいいか尋ねると、いいよと返ってきた。嫁は昔、家族と参拝したことがあるそうだ。片や僕は、加古川に移り住んで十年を過ぎたのに、まだ一度もその山門をくぐったことがなかった。いつでも行けると思うと、なかなか足が向かないんだよね。良い機会を得た。


境外の小径をぐるりと反時計回りに歩き、駐車場を横切って南に回り込むと、仁王門が現れた。ボランティアガイドの説明に耳を傾ける、参拝客の姿もあった。僕らは別にガイドは要らないかな。受付にて、入山料と宝物館拝観料のセットを市民割にて納め、境内へ。

本堂に上がると、内陣には宮殿くうでんが並び、すべて閉ざされている。御本尊である薬師三尊・持国天・多聞天は秘仏で、60年に1回のご開帳。扉越しに手を合わせた。
堂内に設けられた売店を物色したあと、ふと見るとガチャが置いてある。1つは鶴林寺オリジナルのミニチュア文化財、もう1つは聖徳太子冠位十二階おみくじ。こういうの、嫌いじゃない。丁度百円玉が2枚あったので、二人ともレバーを回し、カプセルの中のおみくじを確かめた。僕は「小義(末吉)」で、十七条憲法第十五条に基づいたアドバイスが書かれていた。ちょっと楽しい。


それから境内を一通り巡る。講堂の前の桜が奇麗に咲いていた。公園とは打って変わって、案外人影が少ない。入山料の有無は大きいのか。
鐘楼と護摩堂は、修理工事中で見られず。

最後に宝物館で締めくくろうとしたら、むしろここからが本番になった。入ってすぐのところでボランティアガイドさんに声をかけられたことから、濃密な時間が始まったのだ。
この方、鶴林寺だけでなく仏教そのものの造詣が深く、しかも語り口が軽妙。嫁の素朴ゆえに鋭い質問にも答えてくださる。僕が多少歴史の知識があると言うと、僕の知らなさそうなマニアックな情報を出しては、実際に知らないと小さくガッツポーズをするという、お茶目な面も。仕舞いには宝物館を飛び出し、案内は境内にまで及び、そんなこんなでたっぷり2時間お付き合いいただいた。
なのでここからは、彼に教えていただいたことをベースに、調べて整理した事柄を挙げていこう。


まずは太子堂について。
宝物館の展示室に、かつての須弥壇が再現されている。
木造釈迦三尊像を中心として、木造四天王立像が四方を守護する。釈迦如来の脇侍は、向かって左に文殊菩薩、右に普賢菩薩が配されており、一般的なそれとは逆になっている。いずれも平安末期から鎌倉期の製作で、重文。年代から、これらは創建以来の仏像とみられる。
仏像群の背後には板絵があり、表に「九品来迎図くほんらいこうず」、裏に「涅槃図ねはんず」が描かれている。どちらも彩色を想定復元模写されたものだ。実物は太子堂内にあるものの、長年の薫香による煤煙などで真っ黒。肉眼では見えなくなっている。しかし、この煤が保護膜の役割を果たしたお陰で、劣化から守られたというから面白い。X線など科学技術の発展により、これを線画だけでなく、顔料の元素から彩色も判明し、類似作品などを参考にしつつ、復元できたんだそうだ。
「九品来迎図」は、上品上生から下品下生までの9つの来迎の様子を、丘や雲による区切りを入れて描いている。
「涅槃図」とは、釈迦が沙羅双樹の下で入滅する光景を描いた絵画のことなんだけど、太子堂壁画の特筆すべき点は、釈迦が仰向けに臥せていること。右脇を下にして手を枕に横臥している姿のほうが、広く知られていると思う。日本や中国においては仰向けのほうが古い様式で、こちらは唐時代の涅槃図の影響が反映されており、平安後期から鎌倉期の作品とみられる。
ちなみに、本家本元のインド初期の涅槃像は、右脇を下にした姿勢が一般的だとか。


建築としての太子堂も凄い。
元々は三間×三間の宝形造ほうぎょうづくり法華堂ほっけどうとして建立され、西の常行堂じょうぎょうどうと対になる、西正面の御堂だった。修理の棟札によると天永三年(1112)の造立とされ、法華三昧堂では現存最古の遺構で、国宝。法華堂・常行堂といえば、比叡山延暦寺の西塔地区のものが有名だけど、それより古いわけだよ。
本来は修行道場だったものを、民衆の参拝を受け入れるために、内陣の南に一間の礼堂を増築した結果、南正面になっている。そのせいで、桧皮葺の屋根の反りが特殊な形。これを維持するだけでも大変だろうなぁ。


常行堂は正面三間・側面四間の寄棟造。本瓦葺だけど、元は太子堂と同様の桧皮葺だったらしい。最古の常行三昧堂で重文。


ガイドが太子堂須弥壇から始まったので、後回しにしてしまったけど、次は本堂。応永四年(1397)造営の国宝だ。
隋唐の模倣から始まった日本の寺院建築は、平安末までにそれを卒業し、日本人流に和様わようを完成させる。鎌倉以後、天竺様てんじくよう(大仏様とも)と唐様からよう(禅宗様とも)が伝わった。この本堂は、和様に天竺様と唐様が混合した、折衷様の傑作といわれる。どの紹介文を読んでも、べた褒め、大絶賛。荘厳で美しいくらいしか素人目には表現できないけど、とにかく極めて巧みな建築らしい。
本堂は大講堂とも呼ばれる。天台においては法華経の教理を理解することが重要で、説法を行う中心的な御堂だからだろう。
屋根瓦の東半分が白っぽく、西半分が黒っぽい。東側が古い室町時代の瓦で、焼く温度が低いため白っぽい色をしている。また、黒いほうより厚みもあるので、同じ厚みで固めたほうがずれにくく敷けるため、奇麗なツートンになっているそうだ。
これら主要伽藍の配置が、天台寺院特有の延暦寺西塔型であることが、指摘されている。となれば、法華堂や常行堂に先だって本堂が建てられたと考えられ、天永三年(1112)直前が鶴林寺の創建時期であろうという。

宝物館に安置されている銅造聖観音立像は、法隆寺の夢違観音と並び称される白鳳彫刻。しかしだからといって、鶴林寺が白鳳期からあったという証拠には、残念ながらならない。小柄な仏像なので、どこからでも持ち込めただろうというわけだ。
それはともかく、なんて秀麗なお姿。しなやかに腰を右に曲げ、色気のようなものすら感じる。この時代の仏像、やっぱ好きだなぁ!
兵庫県下最古の仏像で重文に指定されているけど、条件さえ揃えば、国宝になってもおかしくない。
愛太子観音という異名のほか、「あいたた観音」とも呼ばれる。純金でできている(実際は金銅製)と勘違いした泥棒が、ひと儲けしようとこれを盗み、溶かそうとしても溶けないので、ノミを入れようと叩いたところ、「あいたた」と観音さまの声が聞こえたので、恐れて像を返したとか。

鼉太鼓縁や鉦鼓縁といった、舞楽に用いる大太鼓の飾りもあった。とは、ワニに似た空想上の動物。鶴林寺最盛期には、楽僧数十人が所属していたといわれ、境内で華やかな聖霊会が催されたことが窺われる。

南北朝時代の聖徳太子絵伝4幅は、『聖徳太子伝暦』などの伝記を基に描かれた作品。“前世”の善光寺如来の話に始まり、太子の生涯のうち守屋らが堂塔仏像を破壊するところまでが、展示されていた。後半4幅は、大化改新で終わるらしい。それと隣にもう1つ、別の聖徳太子絵伝が掛けられていた。
絵伝は人気だそうで、鶴林寺叢書の中でも、その解説を載せる巻だけ売店で品切れだった。ガイドさんと会話が一番弾んだのも、これらの絵の前だ。

鶴林寺とは直接関係ないんだけど、五ヶ井用水ごかいようすいと呼ばれる加古川下流東岸部を潤す灌漑用の井堰がある。明暦三年(1657)の『五箇井記録』によると、聖徳太子が日向明神(日岡神社)と心を合わせて造ったという。水路工事の基準とした「太子岩」が、今も加古川大堰近くにわずかに残っているとか。太子自ら、この岩の上から工事を指揮したとも伝えられている。お太子さまが開いた土地に住んでいると思うと、プレミア感あるよね。
それに、聖徳太子と灌漑用水といえば、奈良県大和郡山市の稗田池伝承を想起させるなぁ。


三重塔。


注目したいのは、初層南西の鬼瓦。ここだけ特異な意匠で、三面鬼瓦になっている。裏鬼門に対する魔除けなんだそうだ。


さらに南西にあるのが、行者堂。本をただせば当寺の鎮守社で、日吉山王権現をお祀りする山王社と呼ばれていたもの。明治元年(1868)の神仏分離令により、役小角をお迎えし行者堂となった。


この手前に鳥居があるんだけど、神社のためだったわけね。
なお、北東の鬼門は、護摩堂の不動明王が守っている。


他に、観音堂で変わり種のお線香(カレーとか)の香りや、新薬師堂の御本尊の台座が、蓮華などではなくなぜか石積みになっていること、恵便を尋ねて聖徳太子が通った跡という「不開の門跡あかずのもんあと」、塔頭の宝生院の玄関(住職さんのお宅に慣れた様子で入り、展示棚の明かりを点けたから軽くビックリ)にある超巨大な鬼瓦など、ガイドさんの案内がなければ気づけなかったこと、見られなかったものがたくさん。本当にありがとうございました。

軽い気持ちでお出かけしたのに、まさかこんなみっちり巡ることになるとは、思いもしなかった。でもそれだけ時間をかけられるほど、見どころが多い。加古川市、ひいては兵庫県で屈指の古文化財の宝庫!それが鶴林寺。「播磨の法隆寺」は伊達じゃなかった。
嫁にとっても興味深いことが多かったようで、二人で楽しく振り返りながら、帰路に就いたよ。

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