籠神社と真名井神社

2021年3月19日金曜日 13:25
籠神社(このじんじゃ)は京都府宮津市にある神社で、丹後国の一宮。日本書紀によると、崇神天皇6年、トヨスキイリヒメにより皇居から笠縫邑(かさぬいのむら)に遷されたアマテラス大神。倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)によると、同39年に笠縫邑から但波の吉佐宮(よさのみや)へ。吉佐宮ではトヨウケ大神をお祀りしていたため、アマテラスと合わせて4年間奉斎されたという。この由緒をもって、籠神社は元伊勢と呼ばれる。
真名井神社(まないじんじゃ)は籠神社の奥宮。トヨウケ大神が太古よりお祀りされている地で、倭姫命世記のいう吉佐宮はここ。
両社は伊勢神宮の内宮・外宮と非常に繋がりが深いし、真名井は風土記にもゆかりがあるので、是非とも参拝したかった!

天橋立を渡ってそのまま道なりに歩いていくと、国道178号にぶつかる。交差点を横断すれば、籠神社はすぐそこだ。


社号標の先に佇む神明(しんめい)鳥居。入口からして厳かな雰囲気が漂う。
茶房があるから休憩できたら嬉しいなと考えていたんだけど、疫禍の影響で休業中だった。残念。


二の鳥居と神門。両脇にある狛犬は、鎌倉時代の作と伝わる。屋根が付いていて、大事にしているんだろうね。


『境内の中は撮影禁止』の札が置かれていた。案内の場所から、神門より内側の意と解した。伊勢神宮内宮も階段下までしか撮影できないし、さすが元伊勢というか、より身が引き締まる思いがしたよ。
というわけで、以降写真では紹介できない。

中に入り、拝殿にてお参り。全然見えないけど、本殿も伊勢と同じ唯一神明造だそうだ。
籠神社の主祭神は彦火明命(ヒコホアカリノミコト)。アメノオシホミミの御子に天孫ニニギがいるけど、古事記や日本書紀第六の一書によれば、その兄がホアカリ。先代旧事本紀や海部氏勘注系図(あまべしかんちゅうけいず)は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(命)と、ニギハヤヒと同一視している。ややこしい。


神札授与所には様々な御守などのほか、書籍も並べてあった。ここでしか入手できない何か良いものがあるんじゃないか、そう思って確かめると、元伊勢籠神社社務所発行の『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』なる本が!見本誌をざっと確かめたところ、国宝・海部氏系図(あまべしけいず)に始まり、その附(つけたり)指定の海部氏勘注系図の巻首や倭姫命世記といった古文献、参拝客には見えない部分を含む境内や宝物・出土品の写真以外に、宮司さんや研究者による解説など、籠神社の図録といっていい!これは欲しい!そこで嫁に相談して、めでたく授かることができた。もううきうき。
嫁も、可愛らしくも美しい御守を授与していただいたよ。衣食住を大切にする嫁に相応しい御守。
それにしても、女性の参拝者が多かったな。真名井神社の御朱印を頂いている人もいたし、いわゆるパワースポットとしても知られているのかな。

神札授与所の西には、天照大神和魂社、猿田彦社、春日社、真名井稲荷社と、摂末社が並ぶ。道が狭いから、最初どこから行けるのかわからなかった。
さらに、倭宿祢命(ヤマトノスクネノミコト)の銅像が。
彦火明命は、今もなお続く世襲宮司家である、海部氏(あまべうじ)の始祖。海部氏系図・海部氏勘注系図によると、彦火明命の3世孫が倭宿祢命。別名を宇豆彦命という。つまり、神武東征で数々の貢献をした珍彦(ウズヒコ)だよ!椎根津彦(シイネツヒコ)だよ!日本書紀にも倭直らの祖と書いてある。
この銅像は、宮司家のご先祖さまというわけね。亀に乗った姿なのは、古事記での描写からかな。

西側の鳥居を抜けて、そのまま奥宮を目指す。道案内が豊富で、迷わず歩けた。


道の傍に一の鳥居。現在の道路は、本来の表参道とは異なるようだ。それでも、ここをくぐってから進みたい。


社号標と注連柱。籠神社と違って人気が少なく、しんと静まり返っている。


手水の場所として、天の真名井の水が湧き出ていた。“井”だもんね、そりゃあ井戸もあるよね。なんとも贅沢な手水。
二人の若い女性が、熱心に水を汲んでは何かを磨いていた。何してたんだろ。


二の鳥居をくぐり、三の鳥居が見えてきたこちらにも、境内撮影禁止の案内が。
拝殿の前には、個性的で派手な服装の女性が、男性に付き添われていた。真名井の水のところにいた二人組といい、スピっぽい感じ。色んな人がいるねぇ。

真名井神社の主祭神はトヨウケ大神。拝殿を通して磐座を拝む形になっていて、古代の祭祀場を想像させる。それでその磐座がメチャクチャ神々しい。自然と手を合わせたくなった。
丹後国風土記にこんな説話が残っている。真奈井に降りた天女は羽衣を隠され、子のいない老夫婦に請われて一緒に暮らし始める。天女の作る酒で裕福になった老夫婦は、ある日天女を追い出す。地上に留まりすぎて天に帰れなくなった天女は、嘆き悲しみ各地を放浪。奈具村に至ってようやく、天女は心穏やかになった。奈具の社に鎮座しているのは、豊宇賀能売命(トヨウカノメ=トヨウケヒメ)。
豊受大神(トヨウケノオオカミ)は、トヨウケヒメという女神と考えられている。ところが丹後国一宮深秘によると、天女が天に昇りたくて泣き悲しんで歌を詠んだところ、豊受大明神が光を放ち与佐宮に降臨したと。明神とは国常立尊(クニノトコタチ)を指しているので、トヨウケヒメではないとしているわけだ。籠大明神縁起秘伝によると、天女は国常立尊の御子。豊受大神=国常立尊とするのは、鎌倉後期に起こった伊勢神道の考えみたい。このあたりもなかなか入り組んでいて、理解が難しい。
止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)によると、雄略天皇の夢にアマテラスが現れ、「丹波国の比治の真奈井にいるトヨウケヒメを呼び寄せてほしい」と言った。それで渡曽の山田原の下石根に神殿を建ててお祀りしたのが、伊勢神宮外宮の由緒。
倭姫命世記にも、アマテラスが丹波国の与佐の小見の比沼の魚井原(まないのはら)にいる、トヨウケを呼び寄せてほしいと雄略天皇に願ったことが、載っている。用字は違うけど、同じ地のことを指してると考えていいだろうね。
ちなみに倭姫命世記は、神道五部書(しんとうごぶしょ)の内の1書。神道五部書は伊勢神道の根本教典で、奥付には奈良時代以前の成立となっているものの、鎌倉後期の加筆があると考えられていて、偽書説まであるようだ。


丹後国風土記を参考にすると、真奈井はトヨウケヒメが最初に降臨した地だけど、その後奈具の社に遷っている。でも、止由気宮儀式帳などでアマテラスは、真奈井にいるトヨウケヒメを呼んだ。異なる文献に整合性を求めてもしょうがないんだろうけど、この辺が一番よくわかんないね。
ともあれ、アマテラスもトヨウケも伊勢に遷った後、養老3年(海部氏勘注系図を参考)に本宮を真名井神社(吉佐宮)の地から現在の地へと遷して、宮司家の始祖ホアカリを主祭神としてお祀りしたのが、籠神社というわけか。ぼんやりしている箇所もあるにはあるけど、おおよそ史料と紐付けながら縁起を整理できたかな~。

籠神社も真名井神社も、素敵なお社だった~。現地に行かないと得られないものが、やっぱりあるねぇ。

サイト内検索