七支刀をめぐる歴史と信仰の奇跡

2025年5月23日金曜日 21:30
奈良国立博物館開館130年を記念した特別展「超 国宝―祈りのかがやき―」では、国宝112件を含む仏教・神道美術を展示。奈良県天理市布留町の石上神宮いそのかみじんぐうに伝わる国宝「七支刀しちしとう」も通期で出陳される。古代の人々が信じた刀剣に秘められた力と、4世紀の東アジアの激動を語るリアルな証人。それがこの一本だ。そして何より驚くのは、深い信仰に支えられ、1600年以上も大切に守り伝えられてきたということ。
その他にも観たい至宝がいくつもあるので、石上神宮参拝と合わせて行ってきたよ!

七支刀については記紀にも記録されている。『日本書紀』神功皇后摂政四十九年三月条に、日本が百済くだらに援軍を派遣して新羅しらぎを破ったことに続き、
唯千熊長彦与百済王、至于百済国、登辟支山盟之。復登古沙山、共居磐石上。時百済王盟之曰、……常称西蕃、春秋朝貢。
「百済の国王は日本に対して、常に西蕃にしのとなりと称して春秋に朝貢することを盟約した。」
とある。3年後の同五十二年九月丙子条に、
久弖等従千熊長彦詣之。則献七枝刀一口、七子鏡一面、及種々重宝。
「百済の使者が七枝刀ななつさやのたち一口・七子鏡ななつこのかがみ一面、及び種々の重宝を献じた。」
とある。先の盟約に従っての行為だろうね。「支」と「枝」は同字とみなせるので、これこそ「七支刀」のことだ。
『古事記』応神段には、
亦百済国主照古王、以牡馬壱疋、牝馬壱疋、付阿知吉師以貢上。〈此阿知吉師者、阿直史等之祖。〉亦貢上横刀及大鏡。
「百済の国王から横刀たちと大鏡が献上された。」
とあって、それぞれ『日本書紀』のいう「七枝刀」と「七子鏡」に対応するとみられる。

七支刀は、刀身の左右に三本ずつ枝刃が交互に木の枝のように出ているユニークな形状だけど、もう一つ、その表裏両面に金象嵌きんぞうがんの銘文が刻まれていることも見逃せない。象嵌とは材料の表面に他の材料をめ込む工芸の装飾技法のこと。その銘文の判読には諸説あるけど、一例としてはこうだ。
秦□四年十一月十六日丙午正陽造百練銕七支刀出辟百兵宣複供候王□□□□作
先世以来未有此刀百済王世子奇生聖音故為倭王旨造伝示後世
意訳すると、例えばこんな感じ。
〈表〉秦□四年吉日吉時。百回鍛えた鉄からつくられた七支刀は百の兵をも退ける。立派な王に贈るに相応しい。□□□□が製作した。
〈裏〉先祖の時代からもこのような刀はかつて存在しなかった。百済王の太子である私は、神聖な啓示を受けてこの世に生まれた高貴な身の者である。そんな私が特に倭王のために精巧に造った。後世に伝えよ。
百済王と倭王のどちらが上か下か、あるいは対等か、など解釈の分かれる部分があるにしろ、百済から倭(日本)へ七支刀を贈ったという大筋は諸説一致する。
問題は、年紀を表すと思われる「秦□」が判読不能ということ。これを「秦和」とみて東晋(中国)の年号「太和」に充てる説がある。太和四年は369年にあたる。この3年後の372年に百済は東晋に入朝し冊封(形式上の属国関係を結ぶこと)されているので、百済が東晋の年号を使用しても不思議はないし、「秦」と「太」は通音するためだ。
それになんと、この説を補強するニュースが3日前に報じられた。今回の展覧会開催に合わせて保存状態などを確認しようと、奈良国立博物館がX線を使った最新の分析装置で調査したという。その結果、これまで錆で見えなかった部分が鮮明になり、「秦」の下の左側に2本の斜線が確認できたことから、「和」の「のぎへん」の可能性が強まったとしている。このタイミングでこのニュースはアツい!
一方、神功五十二年は『日本書紀』の紀年では252年にあたる。ただ、『日本書紀』編纂者は神功皇后を『魏志』「倭人伝」にみえる「卑弥呼」に無理やり充てようとしており、干支をニ運(120年)繰り下げるべきという説がある。これに従えば372年ということになり、太和四年とは3年しか違わない。この3年間は『日本書紀』の造作か、あるいは369年は七支刀が作られた年で、贈られたのが372年のことかもしれない。だとすれば、七支刀による百済との通交はその銘文と『日本書紀』とで一致するのだ!考古遺物と国史の記録が合致するのは極めて珍しい。
ロマンあふれるとても魅力的な説なのだけど、しかし「秦和」という判読はまだ苦しいように思う。「秦」と「太」の貸借が一般的だとしても、鉄剣に文字を彫るという大変手間のかかる作業に、わざわざ画数の多いほうを選ぶだろうか。まして、他の字には略字も用いられているのに。『日本書紀』に引っ張られすぎてはいないだろうか。引っ張られたくなる気持ちは、痛いほど解るけどね!

『古事記』応神段にはまた、吉野の国主くず(土着民)たちがオオサザキ(応神天皇の皇子でのちの仁徳天皇)の佩いている太刀を見て歌ったという歌が載っている。
本牟多能ほむだの 比能美古ひのみこ 意富佐邪岐おほさざき 意富佐邪岐おほさざき 波加勢流多知はかせるたち 母登都流芸もとつるぎ 須恵布由すゑふゆ 布由紀能須ふゆきのす 加良賀志多紀能すらがしたきの 佐夜佐夜さやさや
品陀ほむだ(応神天皇)の皇子みこ、オオサザキ様、オオサザキ様。お佩きの太刀は手元が剣で切っ先は増えている。葉の落ちた幹の下に生えている小さな木のように、さやさやと揺れている。」
と。枝分かれした剣のさまは、まるで七支刀だ。応神天皇に献上された七支刀を、その皇子が持っていたのかもしれないね。

刀剣を神聖視する精神文化については、石上神宮の神宝のくだりで触れた。それが日本だけにとどまらないことは、七支刀が実用に耐えない形状であることからも読み取れる。しかもこの独特な造形は、朝鮮半島はおろか中国大陸にも類例が無いという。まさに「先世以来未有此刀」であり、絶後でもあった。
先のニュースでは、内部の腐食はほとんど進んでおらず、1600年ほど前の鉄製品とは思えないほど、極めて良好な状態が保たれていることも明らかになったとか。厚さわずか数ミリの鉄刀がこのように現存することは、奇跡としか言いようがない!「伝示後世」との願いは、今も人々の想いとともに受け継がれている。

さてさて、奈良市までは天理街道をひたすら北上。県庁東交差点を左折して登大路を西へ進んでいると、歩道にあふれかえる大勢の観光客の姿が。これからあの中を歩くのかと思うと、ちょっと気が重くなる。今辻子いまづし交差点を南へ折れて、akippaで予約しておいた大英モータープールに駐車。進入路が狭くて切り返し必須だけど、奈良公園にほど近く、まずまず便利な立地だ。
5月とは思えない陽気で、半袖で丁度良いほど。曇ってきたのはむしろ幸いに思えた。
奈良博西新館の前には、長蛇の列。おいおい、比較的ゆっくり観るには午後からの時間帯がオススメっていうから、午後に回したのに。ただ、行列は当日券を求める人と判り、少し安堵。前売券を早くも2月に購入しておいたから、入場に並ぶ必要はなかった。

覚悟を決めて展示室へ向かうと、展示ケースの前を埋め尽くす人、人、人。順路を追うのに迷うような混雑ぶりだ。これでホントに比較的ゆっくりなんだとしたら、開館直後や土日はいったいどんな有り様なんだ。仕方ない、時間だけは余裕がある。自分たちのペースで、焦点を絞って回ろうじゃあないか。
最初は「百済観音」。10年ぶりの拝観は、なぜだか小さく見えた。その曲線美には変わらず惚れ惚れするのに、初めて見上げたときの印象とは違って感じられる。ファーストインパクトが強烈で、思い出補正がかかりすぎたのかな。
重源ちょうげん上人坐像」はハッとするほど写実的で、今にも動き出しそう。険しい相貌に、丸めた背中なのに威厳を漂わせている。この方の偉大さは承知しているけど、何もしてないのに怒られそうと思ってしまった。
粟原寺三重塔伏鉢おうばらでらさんじゅうのとうふせばち」は銘文を読みたくなる。「仲臣朝臣大嶋」、「浄美原宮治天下天皇」、「日並御宇東宮」、「和銅八年」と、大好きな飛鳥・奈良時代のワードがくっきり。
「銅板法華説相図」も刻銘を確かめたかった一品。京博2017年の国宝展では無数の仏に驚嘆するばかりで、下部の銘には気を配らなかった。だけど長谷寺参詣を経た今は、年紀の「降婁漆兎」に「飛鳥清御原大宮治天下天皇」のための発願と、実物をこの目で読めることに喜びを感じる。
釈迦金棺出現図しゃかきんかんしゅつげんず」と東博所蔵の「虚空蔵菩薩像」という2幅の仏画は、嫁が特に観たかったそうだ。
賢愚経けんぐきょう(大聖武)巻第十五」は聖武天皇の御筆と言い伝えられているものの、実際のところは不詳。その真偽はともかく端麗な筆致。写経はどんな思いで写したのか、想像してみたくなる。
「法華経(浅草寺経)」を見ながら嫁と話したのが、当時ただでさえ紙は高価なのに、これだけの装飾が施された紙に書写するプレッシャーって恐ろしいものがあるな、誤字とか許されるのかなと。
「金剛般若経開題残巻 空海筆」は空海のありのままの筆跡といい、途轍もなく貴重なものだと解る。凄いのは理解できても、独草体は読めない。

さあ、メインの七支刀を拝もう。混雑回避のため最終盤に展示されていた。古代史マニアはもちろん、特段古代に興味のない一般大衆の耳目までもこれほど引きつける国宝は、非常に稀だろう。なかなか最前列にたどり着けたなかったけど、辛抱強く待った。
小さなピンスポットライトで斜め横から照らされており、ずいぶん光源が小さいと思った。でもこれ、考え抜かれた展示方法なんだね。金象嵌を反射させることで、判読しやすくなっている。単眼鏡より肉眼のほうが読みやすい。いつもは運転時にしかかけない眼鏡を持っていって正解だった。
「秦」とされる字は自分の目にはどう映るのか、「七支刀」や「百済王」、「倭王」も実物で確かめてみたい。後悔しないよう、気の済むまで凝視した。
一番の関心は銘文だけど、全身を観て思ったのは、意外と小さいということ。大きくて長いイメージが勝手に膨らんでいたのかも。石上神宮で原寸大というポスターを見かけたときに、ちょっと疑ってしまったくらい。でも本当に想像より小さかった。そしてこんな薄く錆びやすい鉄の剣が、朽ちることも折れることもなく伝世している奇跡。“祈り”はまさに時代を“超”えるんだなぁと、しみじみ感じ入った。

最後に迎えてくださったのが、中宮寺の「菩薩半跏像(伝如意輪観音)」。真っ白な空間にぽつんと配されている。正面に立ったとき、思わず合掌しそうになった。ゆっくり360度巡り終える頃には、穏やかな気持ちになっていることに気づいた。素晴らしいエピローグ体験。

鑑賞後に展覧会特設ショップでグッズを物色する時間も、楽しみのひとつ。
七支刀はここでも大人気で、完売している品もあった。ふわふわの七支刀ぬいぐるみってなんだよ、とグッズ紹介を見たときは小ばかにしていたんだけど、本物をじっくり見つめ続けて愛着が湧いたのか、ぬいぐるみもとても可愛く見えた。バカにしてごめんなさい、素敵なアイディアです。
図録は当然のように購入。ウワサには聞いていたけど、分厚くてやたら重たい。

ここらで休憩しよう。西新館の前のスロープを下りて、『カフェ・葉風泰夢』へ。少し並ばなければならなかったけど、程なく席に通された。嫁はアイスティー、僕は校倉クーヘンセットでホットコーヒーを。すると、フォークを二つ用意してくれた。気が利くなぁ。有り難い。二人でバウムクーヘンを一切れずつ摘まみながら、足と頭を休ませた。

一服したところで、そのまま地下回廊から仏像館へ。いつか行こうと思いつつ、毎度特別展だけで力尽きて行けずにいたのだけど、この日はまだ余力を残せていた。自分たちと同様に、国宝展からハシゴする人が多いようだ。それでも、あちらに比べればかなり空いている。
割と軽い気持ちで入ったものだから、その充実した内容に驚くばかり。次から次へと見事な仏さまが。特にビックリしたのが、飛鳥時代の仏像の多さ。こんなにたくさん……もっとレアなものかと思っていたから、自らの無知を思い知らされた。

お目当ての金峯山寺「金剛力士立像」はド迫力。5mの巨像に挟まれると、人間の小ささが良く分かる。何の囲いも無いから、この大きさを体感できるんだろうね。吽形のポージングの躍動感とか筋肉の質感とか、好きだなぁ。
残るは青銅器館。古代中国の青銅器とあって、僕はあまり興味がない。でも一度見てみないと、興味を持てるかどうかもわからない。それに、嫁が商(殷)の時代に某漫画の影響で多少なりとも関心があるそうで、せっかくなので寄ってみよう。ただ、どこから入れるんだとしばし悩む。仏像館の第11室から渡り廊下でつながっていて、そこからしか入れないみたい。仏像巡りの途中に寄るのが正解なのか。案の定さらっと流して終わってしまったけど、それは結果論だ。
気づけば、閉館まで30分を切っていた。

館外へ出て、洋風建築としての仏像館を眺める。設計は片山東熊かたやまとうくま。最近この方のお名前に突き当たることが多いな。それだけ偉大な建築家ということだよね。

帰路に就く前に、近鉄奈良駅周辺で柿の葉寿司を複数の店舗で買い集めた。しかし、クタクタのまま運転するわけにはいかない。というわけで、『ことのまあかり』さんでブレイクタイム。ドアを開くと、そこには生駒さんが。滅多に店頭にはいらっしゃらないのに、なんという偶然。嬉しい誤算がありつつ、梅ソーダでひと息つけた。

ようやく拝観の叶った七支刀はもちろん、数々の寺宝・神宝を拝むことができて、満ち足りた気持ちに。ただ国宝を並べ立てるのではなく、祈りや文化を継承していく心をテーマにした展示だから、豪華でも胸やけしなかったんだろうなぁ。
人の多さには疲れたけど、それでも大満足。

【参考文献】
篠川賢「石上神宮神宝伝承小考」『日本常民文化紀要 (27)』成城大学大学院文学研究科,2009年
仁藤敦史「神功紀外交記事の基礎的考察」『国立歴史民俗博物館研究報告 (211)』国立歴史民俗博物館,2018年
平林章仁『物部氏と石上神宮の古代史』和泉書院,2019年
延敏洙『日本古代国家形成期の対外関係研究』,1994年

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