元明天皇とその子女の御墓
2024年10月12日土曜日
16:56
一年ぶりに奈良を訪れるにあたり、原点回帰の意味を込めて元明天皇こと
吉備内親王に関する史料は乏しい。一般には
「霊亀元年(715)二月二十五日、
長屋王は天武天皇の孫なので、その子は三世王となる。片や吉備内親王の父・
「神亀元年(724)二月六日、三品の田形親王・吉備内親王に
そうしたなか、天平元年(729)二月、時の左大臣、長屋王が藤原氏に陥れられ自殺に追い込まれるという事件――いわゆる長屋王の変――が起こる。
「十二日、長屋王は自ら生命を絶たれた。その妻の吉備内親王、子の
「十三日、使者を派遣して長屋王・吉備内親王の遺体を
吉備内親王が草壁皇子の娘であることは明記されている。しかし母が誰か、正史たる『続日本紀』には記載が無いんだよね。これを補うのが『薬師寺縁起(長和四年(1015))』。天武天皇之子草壁皇子条に、
「阿閇内親王を妃とし一男二女を生んだ。
・珂瑠皇子
・氷高皇女
・吉備皇女」
という系図が載っている。信用して良い記事だと思う。
『万葉集』には、長屋王と膳夫王の死を悼む挽歌(巻3-441,442)が収められているけど、吉備内親王の挽歌は無い。
神亀六年(729)、左大臣長屋王に死を賜ひし後に(天皇の御命令を畏んで承って、倉橋部女王 の作れる歌一首
大君 の命 恐 み大荒城 の 時にはあらねど雲隠 ります
(世の中は空しいものだとして、この照る月も満ち欠けすることだ)膳部 王を悲傷 ぶる歌一首
世間 は空 しき物と あらむとぞ この照る月は 満ち閥 けしける
他に、奈良市の長屋王邸跡からは「吉備内親王」などと書かれた木簡が複数出土している。
それともうひとつ、取り上げたい記述がある。かなり時代を下った伝承ではあるものの、江戸中期の地誌『
「双墓〈梨本村にある。一つは長墓と称し左大臣正二位長屋王、一つは宇司墓と称し二品吉備内親王。……〉」
とある。明治に至り現地を調査した考古学者
「第71号:地元の人は『ウシヲ』塚と言っている。その形は狭隘だが塚上に埴輪の残欠が多く、また西から南へ石棺の柱のような大石が鍵手に埋まっている。土地の人はこの塚を婦人方が埋まっていると唱えている。続日本紀や大和志に照らし合わせて考えるに、今その宇司墓に当たる。そうであれば土地の人が貴婦人の墓と称しているのもまた至当であって、吉備内親王の御墓所だろう。」
「第72号:『ウシヲ』塚の東南にあり、俗にナガヲ塚と言う。四面を丸石で三重に囲い、その構造は丁重堅固で普通の塚ではない。これこそ長屋王の御墓所だろう。『ナガヲ』は恐らく長屋の転訛だろう。」
という。宮内庁による治定も、これらを踏まえた上でのことだろうね。現在立ち入り調査ができない以上、築造年代すら不明だけど、長らく土地の人々が語り継いできた歳月には重みがある。
さてさて、一念発起して転職活動を始め無事に成功し、勤務地の近所へのお引越し先まで決めて、バタバタが続いていた。まだまだ何も片づいていないけど……奈良に行きたい。そんな気持ちが湧いてきた。新天地への決意を込めて、最推しのあの方へご報告に行こう。せっかくだからお子さま方の所も回ろう。などと考え、今回の旅程が固まった。もちろん、嫁の好みそうな場所も組み込んである。第二阪奈道を壱分ICで下り、平群町まで南下したら、長屋王御陵公園に到着。周辺には有料無料問わず駐車場の類いが無い。やむなく溝蓋の上に公園入口ギリギリまで寄せて、数分だけ車を停めることにした。
嫁にはそこで待ってもらい、吉備内親王墓まで100mほど坂道ダッシュ。息を切らしながら石段の上まで上ると、拝所と「〈岡宮天皇皇女〉吉備内親王御墓」と刻まれた石柱があった。
深呼吸してから、吉備ちゃんに拝礼。阿閇ちゃんの次女ちゃんに、やっとご挨拶できて嬉しい。だからもっと浸っていたかったけど、のんびりしていられない。坂を駆け下りて嫁の元へと帰る。途中、“お仲間”と思しき女性を追い抜いた。
今度は嫁と一緒に、長屋王墓へ。
こちらは「〈天武天皇皇孫〉長屋王御墓」と彫り付けてある。二人で二礼二拍手一礼。嫁も「天上の虹」・「長屋王残照記」を通読済みだから、この辺語り合えるんだよね。公園まで戻ると、案の定先ほどの女性とすれ違った。長屋王事件の悲運や歴史ロマンに想いをはせる人だろうか。平日だしマイナースポットだから誰とも遭遇しないだろうと思っていただけに、なんとなく気恥ずかしい。
それはそれとして、いつまでも路駐していられないので、早々に立ち去った。
壱分ICから再び第二阪奈に乗って、阪奈道路経由で奈良市へ。此度の宿泊は、コンフォートホテル奈良のツインエコノミーを選んでみた。伊勢旅行の時に好印象だったんでね。最寄りのコインパーキングに駐車し、チェックイン手続きを済ませる。
部屋に荷物を置いたら、ならまちにある『
タイミングが良かったのか空いていて、好きな席に座ることができた。天井から吊り下げられたユニオンジャックや壁のポスターが、独特の雰囲気を醸している。スコーンとともに頂いた紅茶が美味しかった。嫁にも喜んでもらえて良かった。
それから奈良公園をぷらっと散策。興福寺五重塔。修理工事のため素屋根にびっしり覆われていて、これはこれで迫力がある。
なら仏像館前の広場で鹿たちを愛でたり、猿沢池越しに南円堂を眺めたり。何度訪れても良いなぁ。ディナーはホテル日航奈良の『和処 よしの』にて。ゆったりと落ち着いて、地酒と旬の食材を活かした会席を味わえるのだから、有り難い。
翌朝、JR奈良駅前のスタバで朝食を摂ったら、奈良阪にあるakippa予約駐車場へ。個人宅の駐車スペースタイプは初めて利用した。奈保山東陵まで徒歩数分、奈良豆比古神社にも近い。
住宅街を抜けて元明天皇陵を目指す。雲ひとつない秋晴れの空。阿閇ちゃんにはいつも歓迎されている気がする。自分本位の勝手な思い込みだけど、でも嬉しい。
阿閇ちゃんに近況をご報告。僕が勝手にしていることだけど、それでいいんだ。
続いて奈保山西陵。氷高ちゃんにも久しぶりにご挨拶。駐車場へ引き返そうと歩き出したところで、ウォーキング中の二人組の男性に声をかけられた。そこが誰のお墓か知っているかと訊きながら、自分でゲンセイ天皇だと答える一人。たぶん字面しか知らなくて「元正」を漢音読みしたんだろう。間違いとまではいえないけど。そうですね、そちらがゲンショウ天皇で、あちらがゲンメイ天皇ですねと、さりげなく一般的な読み方で応じた。知らんくせに適当なこと言いよって、ともう一人が呆れながらたしなめ、すんませんねと二人して去っていった。面白い人たちに出会ったものだ。
次は明日香村まで移動。飛鳥歴史公園館の駐車場が便利なんだけど、いつも混んでいる印象だからどうかなと心配しつつ向かった。すると、警備員さんが空き区画を指し示してくださったので、ホッとした。
館内は意外とこぢんまりしている。ただ、明日香村周辺のジオラマが良いね。手前のボタンを押すとライトが光り、史跡などの場所がわかるようになっている。今から行く場所を点けてみた。高松塚地区へは、車道の下を通る地下道から行けるようになっている。
文武天皇陵であることが確定的といわれる中尾山古墳。2020年の現地見学会へは僕独りでの参加だったから、その時のことを改めて話しながら回る。珂瑠くんと静かに向き合うこともできた。
石碑の裏側に、野球のホームベースのような石が。何の説明もなされていないけど、墳形が八角形であることを示しているとみて間違いない。
テーマから逸れるけど、近いので高松塚壁画館にも寄っていく。大人ひとり300円。
かの有名な高松塚古墳壁画のレプリカを2種、発見当初の姿を忠実に模写したものと、絵を見やすくするため剥落や汚れを加減して模写したものとを、比較できる形で展示されている。石槨を展開した状態にしてあって見やすい。それらとは別に、西壁女子群像だけ凝灰岩を使用し漆喰塗りの上から再現模写したものがあって、さすが飛鳥美人は特別扱いだなぁと。
ちなみに、第47回修理作業室の公開期間の開始と被っていた。実物の壁画が見られるといっても窓ガラス越しにかなり遠くからのようだから、応募する気になれないんだよね。
そのあとは、地区内を気の向くままお散歩。端正な墳丘の高松塚古墳を、嫁にも見せてあげられた。この辺りを歩くのが楽しくて、嫁を案内したかったんだよ。
展望台との道標を見かけて登ってみたら、眺望よりもベンチテーブルに貼られた案内図のほうが目を引いた。「国営飛鳥歴史公園を取り巻く王家の谷『八角墳』と皇極(斉明)天皇ゆかりの地」とある。こんな凝った物がなぜこんな所に。
最後の目的地は、高取町の『花水土香』さん。お月見うさぎの飲茶ランチ美味しかったぁ!追加したデザートの、月餅も買って帰ってお茶請けに頂いたんだけど、これまたメッチャ美味しい!いつも美味しいと思っているから通っているわけだけど、年を追うごとにますます美味しくなっている気がするよ。
高取町には、草壁くんの御墓と目される束明神古墳もあるんだけど、時間の都合で泣く泣くパス。近辺に車を停めるスペースすら無いから、壺阪山駅もしくは飛鳥駅から徒歩なり自転車なりしかアクセス手段が無い。往復となると結構かかるのがネックで。残念。
食と美しい景色を堪能しつつ、史跡を巡る。二人とも満足できる旅程の組み方、だいぶ慣れてきたかな。
【参考文献】
安田暎胤,大橋一章『薬師寺』里文出版,1990年
安田暎胤,大橋一章『薬師寺』里文出版,1990年