長谷寺のアジサイと大観音特別拝観

2023年6月23日金曜日 10:10

長谷寺はせでらは、奈良県桜井市初瀬にある寺院。山号は豊山ぶさん。花の御寺として広く知られ、特に春の牡丹、初夏のアジサイの季節は、多くの人々で賑わう。
梅雨どきのお出かけは、雨に降られても構わない場所が望ましい。その点、アジサイは雨が似合う。嫁が行きたいと希望を言ってくれたこともあり、詣でてきたよ。

長谷寺の由緒について、菅原道真が執筆したとする『長谷寺縁起文』によれば、
毘沙門天王の宝塔が、この山の麓の神河の瀬に流れ着いた。その意味を武内宿祢に占わせると、瑞祥と出たので、宝塔を北の峰の西北の角に安置した。それで名を三神から泊瀬豊山はつせとよやまと改めた。その三百年余り後、道明どうみょう上人がこの宝塔を石室に移したところ、山が栄え観音が姿を現したので、里の名を取って寺号とした。天武天皇がさらに道明上人に命じて、西の峰に石室の仏像と三重塔を造立した。
という。ただ、菅公の筆というのは偽託で妄言の多い書であると、江戸後期の国学者の伴信友が断じている。
しかし、その全文が信頼に足るかはさておき、天武天皇の勅で道明が初瀬寺を創建したとのくだりは見逃せない。というのも、7世紀末の制作とみられる長谷寺に伝わる国宝『銅板法華説相図どうばんほっけせっそうず』に、
千仏多宝仏塔(本銅板)は、道明が飛鳥清御原宮に天下をお治めになっている天皇のために造立した。
との銘が刻まれているのだ。「飛鳥清御原宮」の宮号を冠した天皇の呼称は、天武・持統の両天皇に用いられる。またその年紀「歳次降婁」は伴信友により戌年と解読されており、朱鳥元年(686)もしくは文武天皇二年(698)の2説に絞られる。銘文中の天皇を称える「伏惟聖帝超金輪同逸多」が、同じく女帝である則天武后の尊号「慈氏越古金輪聖神皇帝」の意識的な模倣とみられることから、持統天皇の病気平癒のために発願され、文武天皇二年に完成したものとする説が説得的。ただ寺伝との整合性などから、朱鳥元年説も捨てがたい。
なお、『縁起文』にいう「三重塔」とは、三重塔が彫られたこの銅板を指すと考えられる。

創建縁起と並んで注目したいのが、観音縁起。平安中期の仏教説話集『三宝絵詞さんぼうえことば(永観二年(984))』に「長谷菩薩戒」として、
昔、洪水があった時に近江国の高島郡の岬に大木が流れ着いたが、これが祟りを成した。この流木から十一面観音を作ろうとする者が現れ、大和国の葛木下郡まで運んだものの、作れずに亡くなった。それからまた祟りが起こったため、流木は長谷川の中に捨てられた。これを聞いた徳道とくどうという僧が、十一面観音を作ろうと今の長谷寺の地に運んだが、力が無く作れずにいた。そこへ元正天皇と藤原房前が協力し、神亀四年(727)に高さ二丈六尺(約9m)の仏像が完成した。
という。大同小異の縁起が『縁起文』など諸文献にも載る。
『三宝絵詞』などは十一面観音の造立をもって長谷寺の創建としているけど、銅板の存在から、その前身となる精舎はすでにあったとみて良いだろうね。

さて、長谷寺のアジサイといえば超有名、混雑するのが目に見えている。となれば、平日の開門に合わせたい。そんなわけで今回も前泊。フェアフィールド・バイ・マリオット奈良天理山の辺の道に、またお世話になった。目的地より少し離れているけど、ここの寝心地の良さが勝るんだよ。

8時にホテルを発って、8時半に長谷寺境内駐車場に到着。まず駐車してから料金を支払うシステムのようだ。開門時間ちょうどのはずだけど、早くも十数台の先客が。駐車料金を払ったあと、受付への近道を教えてくださった。感じの良い方だったなぁ。


仁王門の手前にある参拝入山受付にて、入山料と御本尊特別拝観料がセットで割引になっていたので、そちらを納めた。こちらは事務的でつっけんどんな対応。普段なら気にしないけど、ついさっきと随分違ったので、変に印象に残った。


その先が登廊のぼりろう。この下廊から中廊・上廊と連なっていく。


下登廊の突き当たりが繋屋で、奥には嵐の坂を埋め尽くすアジサイ!立ち入り自由とのことで、記念撮影に興じたり、熱心に花にレンズを向けたりする人たちで、ここだけやや混み合っていた。
僕らも景色を楽しもう。ビビッドなピンクに青、水色、淡いピンク、紫など、階段に並べられた鉢植えに、地植えの花々がさらに色味を加え、文字通り華やか。フレームにまったく他人を入れないというのは難しいかもしれないけど、少ないほうだろう。


中登廊へ進むと、ぱたりと人影が消える。


次の角の蔵王堂を拝みつつ上登廊を行くと、左に三百余社、右に小祠3社が現れた。三百余社の御祭神はわからないけど、祠のほうには馬頭夫人宮・八幡宮・住吉宮と掛かっていたので、おおよそ見当が付く。お寺の境内にある神社、いいね。


上り切ったところに鐘楼と本堂。
特別拝観は9時からとのことなので、それまで周辺を見て回ろう。


鐘楼の隣に、大伴坂上郎女おおとものさかのうえのいらつめの万葉歌碑があった。
こもりくの 初瀬の山は 色づきぬ しぐれの雨は 降りにけらしも
(初瀬の山は美しく色づいてきました。山では時雨が降ったのでしょうね)
と、初瀬川沿いの山々が紅葉した晩秋を詠んだ歌だ。


時間より少し早いけど、受付入口に入っていく人たちが見えた。僕らも行こう。拝観券を提示すると、塗香ずこうを頂いたので手に塗り込んで清める。それと、結縁けちえんの五色線という腕輪を左手に付けていただいた。観音さまとのご縁が結ばれた証しだそうだ。


本堂内の廊下は天井が低く、屈んで歩かないと頭を打ちそう。それが御本尊のある内々陣に入ると、一気に高くなった。
御本尊の木造十一面観音立像は、高さ10mを超える。天文七年(1538)の復興像で、創建時の像よりさらに大きくなっていることになる。お足下から見上げると、凄い迫力。目の前のお御足は、たくさんの尊崇を集めてきたことで、金箔が剝げ黒ずんでいる。自分たちも有り難い機会だから、直接触れてお参りさせていただいた。
それから観音さまの周りを反時計回りに拝んだ。壁面には仏さまが描かれている。内々陣を出てその外を巡ると、裏側にまで来迎図。こういう御堂の徹底ぶりが好き。
堂内の参拝客はみな、ここまで来られるだけあって丁重な振る舞いの方ばかりだったなぁ。


本堂を今度は外側から。懸造かけづくりになっており、舞台が初瀬山の絶壁にせり出している。奥に五重塔が望め、これぞ長谷寺という光景。
本堂を貫く相の間からは、大観音の御尊顔を拝することができた。通常はこうして拝観するんだな。見上げたときとは印象がまた変わる。脇侍である雨宝童子立像と難陀龍王立像も、ようやく見えた。


本堂裏手の道に咲くアジサイを愛でて、弘法大師御影堂を過ぎると、小さな御堂が佇んでいた。ここが本長谷寺か。
中には『銅板法華説相図』のレプリカが、御本尊として納められていた。キラキラ輝くさまは、草創の姿を復元している。その時、僕の記憶が違和感を覚えた。あれ、こんな色だったっけ?ああ、そうだ。僕は実物を見たことがある。2017年に京博の国宝展で。あの時は無数の仏に驚嘆するばかりで、銘文には注意を払わなかったんだよなぁ。自分の興味の移ろいを実感する。


三重塔跡のそばでは、雨上がりの潤んだアジサイ越しに滑昇霧が見え、なんとも幻想的。この角度を見つけた嫁がスゴい。


奥の院へは向かわず開山堂のほうへと戻ると、本堂の西面を仰ぐ格好になった。


せっかくだから嵐の坂を下りてみる。こちらからの眺めも素敵。ジグザグに通れるようになっている。
繋屋の前には大勢が屯して、写真を撮る順番待ちをしているようす。やっぱり早起きして良かったってことだね。
最後にお手洗いに寄ったんだけど、新しくてメッチャ奇麗だったと言っておきたい。

美しいアジサイはもちろん、大観音さまとのご縁といい、素晴らしい参詣になった。嫁にも喜んでもらえたし、満足満足。次は牡丹の時季に行っても良いかもしれない。

【参考文献】
片岡直樹「長谷寺銅板法華説相図の銘文について」『新潟産業大学経済学部紀要 (40)』新潟産業大学経済学部,2012年

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