オケ・ヲケが隠れ住んだという志染の石室に行ってみた

2020年4月4日土曜日 15:47

志染の石室しじみのいわむろは兵庫県三木市志染町窟屋にある、オケ(のちの仁賢天皇)ヲケ(のちの顕宗天皇)の兄弟が隠れ住んだと伝わる史跡。播磨国風土記はりまのくにふどき、また日本書紀にも関連する記述のある伝承地だ。現在はヒカリモが生息していたり、兄弟を連れて逃げた舎人の名前を見ることもできたり、ひっそりしているけど、情報が多い所だったよ!

御坂神社から志染の石室まではすぐそこ。御坂の交差点に案内標識があったので、指示通り南下するも、次の案内が無い。仕方なくちゃんと地図を確認し、奥田橋東詰の交差点まで戻って東の細い路へ。400mほど走り、白い壁に囲われた資材置場の横の、さらに狭い舗装路を南へと進む。


見通しの悪いクランクを抜けると、志染の石室駐車場があった。場所が場所だけに、こんな立派な駐車場があるとは思わないじゃない。スゴク有り難い。


ゲートが閉じているから、一瞬焦った。けどこれはイノシシ対策のためで、来園者は入って良いようだ。この先は、三木総合防災公園の敷地になるってことか。


途中に『二皇子と桜伝説』と書かれた案内板が。「二皇子ゆかりの26代継體天皇お手植えの桜」とあり、何のことか全然の思い当たらない。
簡単に調べてみたところ、『真清探当証』と題する書物に、継体天皇に関する日本書紀とは異なる記述があるらしい。この書物は偽書とされていると前置きした上で、関係する部分について触れると、継体天皇は顕宗天皇の御子で、政変から逃れるため根尾村で隠れ育てられたが、のちに都に上る際に桜の苗木を植えたという。それが、岐阜県本巣市にある根尾谷の淡墨桜うすずみざくらだと。
真偽のほどはともかく、そうした伝承があることは確かで、それがきっかけで本巣市と三木市の縁も生まれたわけだ。
ただ、桜の季節のはずだけど、それらしい花を見かけることができなかった。見えなかっただけなのか、時期がズレたのか、場所が違うのか。


少し歩くと今度は分かれ道。道標に『左下金水』とあるので、階段を下りれば良いんだろう。奥に建屋も見える。


すると、あったあった。『史蹟 志染の石室 兵庫縣』と刻まれた石碑と祠もある。
オケ・ヲケの兄弟がこの地にいらっしゃった理由が、播磨国風土記の美嚢郡みなぎのこおり志染里しじみのさとの条に記されている。
父・市辺天皇命いちのべのすめらみことが近江国の摧綿野で殺されたとき、日下部連意美くさかべのむらじおみを引き連れて逃げてきて、この村の石室に隠れた。そうした後、意美は自ら重い罪(市辺天皇命の遺児に仕え逃げてきたことが、時の政権に対する反逆と考えた)であると悟り、乗ってきた馬たちの脚の腱を切り断って追い放った。また、持っていた物や馬の鞍などをすべて焼き捨てた。そして首をくくって死んだ。

日本書紀の顕宗天皇即位前紀にも、ほぼ同様のことが載っている。
安康天皇三年十月、ヲケの父・市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこと舎人の佐伯部仲子が、近江の来田綿の蚊屋野にて、雄略天皇のために殺された。そこで、ヲケとオケは父が射殺されたと聞き、恐れて共に逃げて身を隠した。舎人の日下部連使主くさかべのむらじおみと吾田彦は、ひそかにヲケとオケを守って、丹波国の余社郡へと難を避けた。なお殺されることを恐れて、ここから播磨の縮見山しじみのやまの石室に逃れ入り、自ら首をくくって死んだ。ヲケは使主の行方を知らなかった。
その後、やんごとない兄弟は危険を避けるため、村の首長に使役される身となり、何年も辛酸をなめたが、ある日遂に身分を明かす。時の天皇・清寧は後継ぎがいなかったこともあり、二皇子の発見を喜び、都へと迎え入れる。そして、弟のヲケは顕宗天皇として、兄のオケは仁賢天皇として即位することとなる。

風土記のいう志染の村の石室、日本書紀のいう縮見山の石室こそが、まさにこの場所だと!う~ん、ロマン……。
ちなみに、古事記には簡単に、
逃げて針間国はりまのくにに至り、首長の家に仕えた。
とだけあって、石室に触れていないんだよね。


石室の中には水が溜まっていた。オケ・ヲケたちが隠れていた当時は乾いていたんだろうね。こんなんじゃ入れないし。
いつの頃から水が湧きだしたのかはわからないけど、『窟屋いわや金水きんすい』との別称が付いている。というのも、石室の湧水にヒカリモが生息しており、春先には水が金色に光って見えるのだとか。ただ近年は、現象が起こるのはまれになっているとのこと。
っていうけどさ……この黄色っぽいの、それじゃないの!?水面一杯とはいかないけど、所々陰影とは違う金色になっている。確信が持てないけど、これかな?だったらいいな!
別に狙って春に行ったわけじゃないんだけど、もしかしたら幸運だったのかも。


石室の隣には観音堂。美嚢郡西国三十三所霊場の第三十番が、この志染石屋の十一面観世音菩薩だそうだ。


御堂の左右には石仏群。
それにしてもね、湧水にぽっ……ぽっ……と水がしたたり落ちる音が、石室で少し反響して、癒しのような、厳かなような、なんともいえない雰囲気を醸し出していて。この音を含めて、とっても素敵な空間だなぁって。


駐車場へと戻っていくと、行きには見落としていたものに気づいて、ビックリ。


『温故知新 日下部連意美 聖徳碑』と彫られた石碑が。二皇子を播磨へと逃がした日下部意美(使主)の善行を讃えてのことだろう。
オケ・ヲケだけでなく、反逆になることをいとわず勇敢な行動を取った、彼の名前がある!これは嬉しいね~!


側面には歌らしき文があったけど、くずし字だから所々読めない……。

播磨国風土記と日本書紀双方に登場する地とあって、期待は大きかったけど、想像以上に情報量の多い場所だった。三木には長いこと住んだ時期があったけど、こんなところがあったなんて。馴染みのある土地だけに、誇らしい気持ち。

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