近江京を駆け抜ける

2017年9月22日金曜日 18:19

近江神宮は昭和15年創建で歴史が浅い。神社としての見所も少ない。ただ天智天皇陛下へのご挨拶ができればと思い、参拝した。
目的はもうひとつある。近江大津宮錦織遺跡おうみおおつのみやにしこおりいせき、天智天皇が開いた近江京のあった地だ。
今回の旅行はミュシャ展を軸にしたものだけど、寄りたくても時間の都合でこれまで寄れなかった場所が、幸い近くに2箇所もあった。それが日吉大社であり、近江神宮である。いわば湖西の忘れ物を取りに行く旅。


大宮川観光駐車場から近江神宮までは20分ほど。駐車場への入口もその場所も判りづらくて少々迷ったけど、無事に着いた。
外拝殿げはいでんまでは屋根のある廊下を歩けた。雨が降り続いてたので助かる。


本殿の屋根がちょこっと見える。本殿が内拝殿に隠れてて外拝殿から拝礼する形は、橿原神宮を思い出させる。近代神社建築ってこういうものなの?なんせ豪奢よね。


厳かなムードは圧迫感がある。そういう意味で神社より寺院みたい。


傘を差して楼門に近付く。こちらも立派な構えで、鮮やかな朱が美しい。

お参りが済んだら、次は遺跡の確認。ただの空き地を見に行くのに、雨空の下、嫁を連れ回すのは気が引ける。そこで嫁には車に残ってもらい、僕独りでささっと行ってくることに。


近江神宮から徒歩7分、錦織遺跡第1地点に到着。ん、第1?リサーチの甘い僕は、この時9地点あることを知らなかった。


ここに、天智天皇が飛鳥から遷した大津宮があったのか……。案内板や柱の跡がその存在を示す以外、何も無い原っぱ。だけど、想いを馳せる地がある、それだけで充分。
天智天皇は、白村江はくそんこう/はくすきのえの戦いで唐・新羅の連合軍に大敗したあと、飛鳥から近江に遷都した。これが大津宮である。しかしそれからわずか5年で崩御し、さらに壬申じんしんの乱の勃発で大津宮も崩壊してしまった。
考古学的調査により、ここ錦織に位置していたことが確定されている大津宮。上代における最も激動の時代を、現在に伝える場所といえる。だから、自分の足で踏み締めたかった!


柿本人麻呂の歌碑があるのがニクい。「大津の宮はここだと聞くけれど、草が生い茂って霞んでいる跡を見るのは悲しい」と、この地を訪れる人の気持ちを代弁してくれている。


時節は丁度彼岸。石碑の前に一輪だけ、ヒガンバナが雨露に濡れていた。淋しさを感じるけど、温かい気もする。


第1という表現に引っかかりを覚えつつ来た道を戻っていると、第2地点を発見。内裏正殿のあった場所とされる。すなわちこここそ大津宮の中心。


続いて第9・第7地点を見つけた。あれ、数字が飛んだ。やはり他にもあるのか、とここで気づく僕。
その答えが、第9地点の説明図に載ってた。お陰で遺跡の全貌を地図で把握できた。ろくに下調べして来なかった自分には、ムチャクチャ有り難い。これを頼りに他の地点を探し歩いた。
戻るのが少し遅くなる旨を嫁に連絡。


第7地点はフェンスに囲われ立ち入ることができない。網目の間からレンズだけ出して案内板などを撮った。


それから第8地点。枝葉で下のほう隠れてるし。


第5・第6地点と思われる場所にも行ったのだけど、案内板どころか標柱すら見当たらない。でも住宅街の中の不自然な空き地だったし、先ほどの地図とも符合するので間違いないと思う。
行き止まりの多い狭い路地ばかりで、史跡を集めて回るのに結構迷った。


さらに戻っていくと、近江神宮の南東に、錦織遺跡のための駐車場があるじゃないか。つくづくちゃんと調べときゃ良かったなと。マイカーならここ、公共交通機関ならJR大津京駅もしくは京阪近江神宮前駅を、それぞれ拠点に巡るのがベストかと。

この史跡を『大津京シンボル緑地』として整備したとのこと。空き地だの原っぱだのというと聞こえが悪いが、なるほど緑地ね。巧いこと表現したなぁ。藤原鎌足や額田王の歌碑などが、彩りを添えていた。
案内を読むのはあとにして、カメラに収めるだけ収めたら、待たせてる嫁の下へ走って戻った。改めて礼を伝える。
確認したら、第3・第4地点に行きそびれてた。ネットでどんな場所か調べて、わざわざ舞い戻ることもなさそうだと判断。もう汗だく。

雨の中、住宅地の間にある緑地を求め、駆け巡った。自分の足で回ることで、近江京の大きさを体感できた。それに、かつての都を走り抜けているような、そんな気分に浸れた。その経験が、何物にも代え難い。
ロマン溢れるあの時代が、大好きだ。

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