但馬妙見 名草神社は神社ではなかった

2016年9月10日土曜日 13:54

兵庫県養父市、但馬妙見山の中腹にある名草神社。出雲大社から譲り受けた三重塔が有名だ。主にそれが目当てで、しかもアメノミナカヌシが配祀されてるというので、参拝することにした。しかしそこには、とんでもない衝撃の真実があった。

まずは道中と参拝したことを記そう。
道の駅但馬楽座から名草神社を目指して車を走らせていくと、徐々に道幅が狭くなっていった。センターラインがあるゾーンのほうが短く、そのうち曲がりくねった山道に突入。
そこからは軽四同士でも離合が難しいような狭さ。特に右カーブの見通しは最悪で、オマケにカーブミラーさえ無い所もあり、慎重に最徐行で進んだ。対向車が来たのが、まれに存在した道幅の比較的広い場所だったのが、もうホントにラッキーとしか。
途中に日光院という立派なお寺を見掛けた。これが伏線になってるんだけど、そちらは後述。
長い長い10キロだった……。ちょっとした修行でもした気分。


緊張を強いられた道程を経て、名草神社と書かれた看板と、駐車できそうなスペースを見つけた。はっきり駐車場とは示されてないけど、ここに停めて良いのかな。
とりあえずそこに車を停めたとき、一台の車が上ってきた。どうするのかと注視してたら、神社へのコンクリートで舗装された急坂を、さらに上っていくじゃないか。
しばし悩んだ末、僕らはそこから先は歩いていくことに決めた。下りてから曲がるの大変そうだし。


坂の入り口に社号標がひっそりと。
その脇の十数段の石段の上には、詳細不明のお社があった。あとで上の本殿の横にも謎の社殿を見た。


さっき車が上っていった坂を進んでいくと、早速三重塔が見えてきた。
坂を上り切ると眼前にどーんと塔があり、その後ろは広々とした空間になってて、件の車はそこに停まってた。なるほど、そこにも置けるのか。


これが出雲大社からやって来た三重塔か……。古代出雲歴史博物館でその存在を知り、いつか訪れたいと思ってた所に立てて、大した月日は経ってないのに、なんともしみじみとした思いが込み上げる。
こんな鮮やかな朱色の塔婆が立ってた頃の杵築の社って、どんな風だったんだろ。春日大社あたりがイメージとして近いのかな。色々想像が膨らむなぁ。
江戸時代に出雲大社で大規模な修復(寛文の造営)が行われたとき、本殿の材木が足りなくて探したところ、但馬国(現在の兵庫県北部)にある妙見杉が良いということで、そちらと交渉した結果、三重塔を取り壊すのなら代わりにそれを譲ってほしいとなったらしい。この修復の際に境内から仏教色を一掃したという。それでほぼ現在の出雲大社の姿になったと。
こうして譲渡されてきた塔が、兵庫県の、それも標高800mの高地にそびえ立ってる。スゴイことだよね。


寺院建築の面白味を少しは理解してきたので、続いて細部に注目していく。
初層の4隅では力士が屋根を支えてた。それぞれポーズが違ってて面白い。当時の色味が一番判るのがコレ。
側面に梵字らしきものも確認できたけど、なんて書いてあるか読めない。


三層には4匹の猿。見ざる。


言わざる。


聞かざる。


そして、思わざる。とされてるけど諸説あるようだ。

僕たち二人のほかに、観光客は数名いたけど、三重塔をぐるりと見物したらすぐに去ってしまった。
神社に来てそれだけで帰るような真似は、僕らはしない。奥の石段を上っていけば、本殿があるはずだ。
その前に『法華経』と刻まれた石碑を見つけ、少し違和感を覚えたものの、それ以上気に留めることはなかった。


拝殿と本殿は復旧工事の真っ只中のようだった。あちこち木組みで補強され、地面には作業用の鉄板が敷かれおり、業者さんのプレハブ小屋もあった。あとで調べたところによると、4年前の大雪で屋根が壊れたらしい。
近寄って良いものか一瞬躊躇したものの、もっと近くで見たい、神さまに挨拶したいという気持ちが勝り、鈴緒の前まで進んだ。手前に立入を禁止する旨の看板があったことには、まったく気づかなかった。あとからそれは嫁から指摘されたことだ。言い訳をさせてもらうと、本殿付近にいたときに工事関係者の方々からは、注意を受けるどころか、こんにちはと気持ちの良い挨拶をしてもらったのだ。それで安心しちゃった。


拝殿の天井には、かろうじて塗装が残ってる。きっと鮮やかな社殿だったんだろう。拝殿の真ん中が通路になってるってのは珍しい。


本殿にて拝礼。主祭神はナグサヒコ。配祀神にアメノミナカヌシ、タカミムスヒ、カムムスヒなどが連なり、古事記の最初に出てくる別天つ神という錚々たる顔ぶれだ。だからテンション上がったんだよね。


日光東照宮を模して建てられたとかで、確かに装飾が豪奢。妙見信仰という共通項はあるけど、神仏習合の色合いが濃いとも感じた。


向拝右側の柱にいる狛犬が「はわわ」って口元押さえてて、カワイイ。江戸時代にこんな萌え要素がすでにあったのかと。


本来拝殿前で護ってるはずの狛犬たちは、脇に外されブルーシートの上に座ってた。なんか寂しそうな顔に見える。
災害復旧工事が終わったら、改めて行きたいねと嫁と話した。2018年春完成予定らしい。



さて、問題はここから。


主祭神のナグサヒコってどなた?という疑問を解決しようとアレコレ調べていくと、衝撃的なことに突き当たったのだ。
結論を端的にいうと、名草神社は神社ではなかったということ。やや御幣のある表現だけど、そういったほうがわかりやすい。

今回の旅行は県内の日帰りってことで、事前リサーチが甘かった。三重塔のことは知ってたから、他に場所と御祭神くらいしか確認してなくて、ナグサヒコなる神さまについてはおいおい調査しようと。
ナグサヒコ――名草彦命は、日本書紀の神武記にみえる名草邑なぐさむら名草戸畔なぐさとべと関係が深いようだ。名草邑は紀伊国(現在の和歌山県)にあった。おや、紀伊国のとある一族の氏神が、なぜ遠く離れた但馬国に祀られてるんだ?謎が謎を呼ぶ。

そうこうするうちに辿り着いたのが、日光院の公式サイト。そう、名草神社に向かう途上にあった寺院だ。
前置きしておくけど、古事記好きにはショッキングな内容かも知れない。『但馬妙見 日光院』の公式サイトに『但馬妙見信仰の歴史を正しく知っていただくために』というページが設けてある。ここをベースに、一次資料まで追って精査されたつねまるさんのブログも見つけた。
それで僕は思った。これはどうやら確からしいぞ。

掻い摘んで箇条書き。
・日光院は妙見信仰の篤い寺院で神仏習合していない。
・但馬妙見山は元々は日光院の境内。
・明治政府の発した神仏分離令により日光院は不動産を残して退去させられた。
・妙見山に残った社殿を利用し新しく名草神社ができた。

ポイントは、習合などしていないのに分離させるという無理筋を強引に通されたこと。その結果、いもしない神さまを祀る名草神社が誕生したのだ。近代に入って妙見菩薩と同一視されるようになったアメノミナカヌシが配祀されてるのはまだ解らなくもないが、主祭神ナグサヒコなど習合するはずがない。
良い材木を求めて出雲大社が交渉した相手は誰だったのか。それは日光院だ。お寺が塔婆の建立を願って、三重塔と交換したのなら、なんの不思議もない。
社殿に精巧な彫刻が多く施され、『法華経』の石碑があるのは、神仏習合だからじゃない。そもそもお寺だった。珍しい構造の拝殿は拝殿じゃない、護摩堂だった。本殿は本殿だったけど、かつて鎮座されてた妙見菩薩は山を下りられた。三重塔の御本尊であった虚空蔵菩薩も今はいらっしゃらない。これらこそ、僕の感じた違和感の正体だったんだ。

……興奮気味に語ってしまった。それだけ僕の心を激しく揺さぶる真実だったからだけど。
そう考えると、あの本殿で打った柏手が空しく感じる。


だけど、これだけは強調しておきたい。この山で起こった出来事がどうであれ、三重塔や社殿の素晴らしさは少しも曇らないということ。出雲大社から譲られたロマンは色褪せないということ。
だから、修繕が無事に完了することを願ってるし、その折にはもう一度足を運ぼうと思ってる。

や~、思いがけない展開で、強烈な印象を残した旅になったよ。ちゃんと予習しろってことでもあるけどね、と反省。

サイト内検索