ヤマト王権の原風景 纒向遺跡をARで歩く

2025年11月8日土曜日 22:03
奈良県桜井市にある纒向遺跡まきむくいせきは、初期ヤマト王権発祥の地とされる。古代史ファンとしては、これだけで訪れる理由として十分すぎるのだけど、今回はさらに気になるものがあった。現地でスマホ用アプリ「YAMATO 桜井周遊ARガイド」を使うと、かつて存在した建物がARで目の前に再現されるという。これは絶対に試したい。そう思い、足を運んだよ。

現地を楽しむ前に、纒向遺跡の基礎知識を少し整理しておきたい。古代史好きとして譲れない前置きだ。
纒向遺跡は、3世紀初頭に奈良盆地東南部に突如として現れた巨大集落跡だ。それまでほとんど人の気配がなかった場所に、短期間で首長層の墓域まで備えた大規模拠点が築かれている。そのスケールは弥生時代の拠点集落とは比較にならず、日本で最初に計画的に造られた都市と考えられている。
興味深いのは、この遺跡は農耕の痕跡が少ない一方で、土木作業用のすきが大量に出土していること。普通の農村ではなく、政治・祭祀を司った特別な場所であった可能性が高い。また、九州から関東まで全国規模で土器が集まり、吉備きび由来の祭祀具や朝鮮半島・大陸系の遺物まで見つかっている。ここが広域の交流・交易を統合する結節点だったことがよく分かる。
方位を正確に揃えて建てられた大型掘立柱建物群、そして建物の廃絶時に儀礼が行われたとみられる祭祀土坑。これらは王権の中枢にふさわしい象徴であり、弥生の集落とは明確に異なる政治空間がここに広がっていたことを示している。まさに古墳時代の幕開けと初期ヤマト王権の中心が、この地にあったわけだ。

併存する纒向古墳群には、箸墓古墳はしはかこふんをはじめ、纒向石塚古墳まきむくいしづかこふん矢塚古墳やづかこふん勝山古墳かつやまこふん東田大塚古墳ひがいだおおつかこふん、ホケノ山古墳、メクリ1号墳などがある。どれも日本最古級で、前方後円墳が定型化する前の段階に位置づけられる。
特にこの地域には大規模古墳が集中して築かれており、既に大和を中心に政治連合が成立していたことを示す。一方で埋葬施設や副葬品には弥生終末期らしい要素が残り、古墳時代への移行期の姿をそのまま伝えている。古墳の成立と古代国家形成を考えるうえで欠かせない存在だ。
中でも纒向石塚古墳は全長約96mの前方後円墳で、後円部が高く前方部が低い「纒向型前方後円墳」の代表例とされる。幅20m前後の周濠を巡らせ、鋤やくわといった土木用具、鶏形木製品、弧文円板こもんえんばんなどの祭祀具が出土している。埴輪や葺石は見つかっておらず、築造時期は庄内1式期(3世紀前半)説と3式期(3世紀中頃)説の両説が並立中。いずれにせよ、発生期前方後円墳の象徴的存在なのは間違いない。
一方、箸墓古墳は全長約280mに達する圧倒的スケールで、纒向古墳群最大の前方後円墳だ。後円部は5段、前方部は4段以上の段築。葺石・周濠・外濠・渡り堤など大規模構造が整えられ、墳丘に密接する施設も見つかっている。築造時期は布留0式期(3世紀後半)と考えられ、纒向古墳群の中核として遺跡全体の性格を決定づけた巨大墳といえる。

こうして見ていくと、纒向遺跡と纒向古墳群は、集落の性格、広域交流、初期古墳の集中という複数の要素を併せ持ち、古墳時代とヤマト王権誕生を直接示す稀有な考古学的証拠群だといえる。

さらに、纒向遺跡の考古学成果に文献史料、特に「魏志倭人伝」を照らし合わせることで、邪馬台国の所在をめぐる議論に一定の方向性を与えることができる。
一般に「魏志倭人伝」と呼ばれるが、その名の書物は存在しない。正確には、中国三国時代について書かれた歴史書『三国志』の「魏志(魏書)」30巻のうちの「烏丸鮮卑東夷伝」にある倭人条。「魏志倭人伝」はその通称だ。
「倭人伝」では邪馬台国までの行程が詳細に記録されているが、その総距離部分だけを引用すると、次のようにある。
倭人在帯方東南大海之中……自郡至女王国万二千余里
帯方郡たいほうぐん(朝鮮半島の中部)から女王国、つまり邪馬台国までの距離を12,000里と記している。後漢~三国期の1里は約0.434kmとされるため、単純計算すると5,208kmにも及び、パプアニューギニアの辺りにまで離れてしまう。当然この距離は実態と乖離しており、記録の信憑性や里の換算方法に関して多くの議論がある。
そもそも「倭人伝」は『三国志』のごく一部に過ぎず、儒教的中華思想の枠組みの中で、皇帝の徳を示すために周辺諸国を描くという性格をもつ。そのため距離や方位が政治的・理念的に操作されている可能性を考慮しなければならない。潤色は『日本書紀』ばかりの問題ではなく、中国正史も同様だ。
特に、という中国王朝が、当時対立していたという別の勢力に対して、日本列島の政権を「呉の背後を脅かし得る重要な存在」と強調する意図が働いていたと考えられている。つまり倭国までの道のりは、実態とかけ離れている可能性が高い。
そのため、「倭人伝」における距離情報の採用には慎重であるべきであり、方位情報についても補正が必要だという指摘がある。たとえば、九州北部に比定される不弥国ふみこく以降の「南」方位を「東」へと反時計回りに90度転換するなどの試みが提案されている。

さらに次の記述がある。
自女王国以北特置一大率検察諸国畏憚之常治伊都国於国中有如刺史
九州北部にあった伊都国いとこくに「大率」という役職が置かれ、それが中国側で地方官にあたる「刺史」に例えられている点だ。これは伊都国が中央ではなく地方として認識されていたことを示唆する。もし邪馬台国が北九州にあったなら、伊都国は首都近辺の扱いになるため、中央を司る役職名に準じた比喩が用いられたはずだ。

こうした点を踏まえると、史学の観点からも邪馬台国を大和に求める見解は、考古学成果と整合し、有力説のひとつといえる。ただし、纒向遺跡出土の外来系土器のうち九州系が極端に少なく、中国由来の遺物もわずかである点は疑問を残す。伊都国が地方扱いだったとして否定されるのは北九州説であって、九州全体の可能性までは排除しきれない。
結局のところ、現段階で邪馬台国の場所を特定することは不可能というのが実情だ。だが、邪馬台国と地続きであるかどうかはともかく、纒向遺跡がヤマト王権誕生の地である可能性は極めて高いだろう。

では、その知識を胸に、実際に纒向遺跡を訪れた日の記録に戻ろう。
半年ぶりの奈良旅行は、日曜開催のイベントを主軸に土日で計画した。目的が絞られていたので前泊はしない。自宅を7時半ごろ出発し、阪神高速松原線の喜連瓜破付近の通行止め解除を走りながら確認。渋滞回避のため西名阪を法隆寺ICで下り、広陵町の巨大かぐや姫像を横目に田原本町を抜ける。すると、1キロ先にあるはずの大神おおみわ神社の大鳥居がすぐそばにあるかのように見え、遠近感が狂うほどの巨大さに思わず声を上げた。

大神神社第2駐車場には10時半ごろ到着。初期ヤマト王権を語るうえで、大神神社の鎮座する三輪山は欠かせない存在だが、まずは桜井市立埋蔵文化財センターで纒向遺跡の出土品を見ることにした。

展示室が1フロアだけのこぢんまりした博物館だけど、内容は濃い。「弥生のムラと暮らし」から始まり、早速纒向遺跡出土の石槍せきそうが並ぶ。

続く「マキムクの時代」のコーナーには、今年完成したばかりの纒向犬の復元模型「こまき」が立ち、その隣には元となった骨も展示されていた。

鶏形木製品・弧文円板などが複製品だったのは、ちょっぴり残念だ。

が、東海系や山陰系など広範囲にわたる外来形土器の展示は、この遺跡らしさが詰まっている。比率グラフが1976年と古めなのが気になったけど。

鉄生産資料や木製輪鐙わあぶみ、弧文石、弧文板といった珍しい遺物も並び、見応えは十分。

木製仮面や大量の桃の種は祭祀に使われたらしく、桃が邪を払うイメージから日本神話のイザナギを思い出す。

辻地区建物群の1/50模型も、後の現地訪問を想像するのに役立った。

鶏形埴輪の脚部の作り込みには感心する。

三輪山周辺に滑石かっせき製品や玉類などの祭祀遺物が集中しているという解説も、興味深い。
三輪山は『記』『紀』にもたびたび登場し、古くから信仰されてきた。今も大神神社の御神体だ。

池ノ内古墳群出土の勾玉は、現代のアクセサリーのような美しさだった。

特別展「纒向の王を支えた人々」は気になるものに絞ったが、それでも全体で40分以上滞在するほど楽しく、期待以上の収穫にウキウキで館を出た。

大神神社へ戻る途中、三輪参道入口の『三輪そうめん 池側』で「国内産小麦 三輪の誉」を購入。

そのまま『三輪の里 池側』へ向かった。以前ここで食べたにゅうめんが忘れられず、今回も「あんかけそうめん おこわ定食」を注文。にゅうめんもおこわも小鉢も安定して美味しい。次は、暖かい時期にひやしそうめんも食べてみたい。

その後、大神神社を参拝。多くの参拝客で賑わっていた。

境内では「全国奉納銘酒展」が開催され、北海道から沖縄までの銘酒が並ぶ光景は圧巻。11月14日の醸造安全祈願祭に向け奉献されたものらしい。

ここからいよいよ纒向遺跡へ向かう。遺跡周辺に駐車場がないため電車利用。万葉まほろば線の三輪駅から一駅、巻向駅まで。どちらも無人駅でICカードタッチ方式だが、秩父で経験していたので戸惑わずに済んだ。

駅を出ると案内板が迎えてくれ、踏切を渡って西へ進むと纒向遺跡太田地区に着く。メクリ1号墳があるらしいが、墳丘が残っていないため分からない。
立派で清潔な見学者用トイレがありがたい。気候の良い週末とあって、遺跡巡りをする“お仲間”たちと何度もすれ違った。

さらに西へ歩けば、遺跡越しに三輪山が見えた。三角錐の山容はひときわ目を引く。当時の人々にとっても特別な存在だったに違いない。

続いて纒向石塚古墳を訪れたが、大戦中の高射砲陣地設営で墳丘上部が大きく削られており、形状は分かりづらい。案内も簡素で重要度の割に整備不足の印象。築造時期の議論が進めば変わるかもしれない。

次に団地を抜けて纒向遺跡辻地区へ。「纒向遺跡居館域の調査」説明板を読んでいると、黒猫が下をくぐって登場。ごろんと横になって撫でろと言わんばかり。観光客からエサをもらっているのかもしれない。
嫁が写真を撮ろうと追いかけるも、こちらを向かない。エサがないなら相手にしないということか。したたかに生きている。

気を取り直して遺跡を見る。掘立柱建物の柱が3棟分復元され、規模を体感できる。特に建物Dは3世紀中頃まででは国内最大級の床面積で、当時の首長居館とされる。

そうして見学していると、今度は別の猫が来て、またお腹を見せて寝転がる。まさかの連続サービスに笑いが止まらない。

ここでAR体験。アプリを起動し「CG復元ARウォークスルー体験」のマーカーにカメラを向けると、3棟の居館が目の前に再現された。周囲の住宅と比較してもその巨大さがよく分かる。高さや構造は推定に過ぎないけど、ロマンをかき立てるのには十分。
自分も入れてスクショを撮ってもらい、ちょっとしたタイムスリップ気分を味わう。

巻向駅から三輪駅へ戻り、車で『ひみこの庭』へ。9年ぶりの再訪で様子が変わっていた。入口に迷っていると店主の方が声をかけてくれた。
店内は柔らかな陽射しが差し込み、素敵な雰囲気。嫁も気に入ってくれたみたいだ。タイミングに恵まれたのか、先客もおらず落ち着けた。
二人でホットコーヒーを注文。マグの「NISHIMURA'S COFFEE」の文字を見て、神戸の老舗「にしむら珈琲店」の豆を使っているのかと思う。
写真撮影を店主に確認したら快く許可してくれた。庭から箸墓古墳が一望でき、大神神社の御神体である三輪山が望めるという話に、こちらも思わず頷いた。この地を心から愛してカフェを続けているんだなぁ。

休憩後、『ひすい庭園』で箸墓古墳を眺めた。少し東には三輪山も見える。ここは本当に絶景ポイントだ。
箸中大池には渡り鳥がいた。自然との調和が際立ち、古墳のくびれ部も明瞭。数ある前方後円墳でも随一の美しさだと思う。
被葬者をめぐる議論は発掘が進まなければ動かないだろうが、この景色が長く守られることを願った。

今夜の宿はフェアフィールド・バイ・マリオット・奈良天理山の辺の道。奈良市の宿泊料金が高騰するなかで、このホテルの良さが際立つ。

チェックイン後、徒歩で『奈良・天理のカフェ&フレンチ Le Reveル・レーヴ』へ。以前利用したランチが良かったので、今回はディナーコース「La merラ・メール」を予約したのだ。
ランチはオーソドックスな印象だったけど、ディナーでは和の要素を取り入れた創作フレンチもあり、良い意味で驚かされた。盛り付けのアーティスティックさも相変わらず素晴らしい。

ご機嫌でホテルへ戻り、売店で奈良のブランド苺「古都華」のスパークリングワインと大和茶ラングドシャを購入。フロントが冷えたグラスを用意してくれ、部屋で飲み直す。こうして充実の一日が締めくくられた。

纒向遺跡とその周辺を歩き、古代の空気を感じ、現地の人や風景に触れるたびに、書物や学説だけでは得られない実感が積み重なっていく。まだ結論の出ない邪馬台国論争も、目の前に広がる大地の上で考えると、また違った輪郭を帯びて見えてくる。
次に訪れるときには、きっとまた別の発見があるだろうね。そんな予感を胸に、眠りに就いた。

【参考文献】
桜井市教育委員会文化財課『纒向石塚古墳発掘調査報告書』桜井市教育委員会文化財課,2012年
桜井市教育委員会文化財課『史跡纒向遺跡・史跡纒向古墳群 保存活用計画書』桜井市教育委員会文化財課,2016年
関川尚功「畿内地方の古式土師器」『纒向』奈良県桜井市教育委員会,1976年
寺沢薫『王権誕生』講談社,2008年
水林彪「列島国制史の根本的諸問題 (2)」『纒向学研究 (12)』桜井市纒向学研究センター,2024年
渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』中央公論新社,2012年

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