高安城から奈良盆地を望む
2025年1月19日日曜日
22:22
元明天皇こと阿閇ちゃんが行かれた記録があるなら、現地を確かめてみたいというもの!
高安城については、『日本書紀』及び『続日本紀』にわずかな記事が残っているのみだ。
「天智天皇六年十一月、この月に
「同八年八月己酉(3日)、天皇は
「同八年、この冬に高安城を修築して、畿内の田税を収めた。」
「同九年二月、高安城を修築して穀物と塩を積んだ。」
「天武天皇元年七月壬子(23日)、この日、
「同四年二月丁酉(23日)、天武天皇は高安城に行幸なさった。」
「持統天皇三月十月庚申(11日)、持統天皇は高安城に行幸なさった。」
「文武天皇二年八月丁未(20日)、高安城を修理した。〈天智天皇の五年に築いた城である。〉」
「同三年九月丙寅(15日)、高安城を修理した。」
「大宝元年八月丙寅(26日)、高安城を廃して、その建物、種々の物を
「和銅五年正月壬辰(23日)、河内国高安
「和銅五年八月庚申(23日)、元明天皇は高安城に行幸なさった。」
天智天皇六年(667)(「文武紀」では五年となっている)に築城され、
この行幸記事に関する研究はほとんどされていないようで、僕は1件しか見つけられなかった。その貴重な関根淳先生の論文によれば、高安城というのは軍事施設の役割だけでなく、「国見」的な行幸を行う場所としても重要な意味を持っていたのではという。当時、平城京造営の課役を免れるため逃亡する人民が多数出るなど、社会的動揺があった。そのため、慰撫政策も繰り返し施された。また、元明天皇の即位自体、政治的な意図の強いものだった。こうした社会と政治の動揺を鎮めるべく、「国見」を必要としたのだと。
近年、高安山山中で倉庫跡が発掘されており、土器なども見つかった。その出土状況と形態から、倉庫の築造時期は奈良時代前期に比定されている。つまり、軍事施設としての役割を終えたあとも、その場所はしばらく活用され続けていたのだ。
阿閇ちゃんは何も破壊された城跡へ登られたのではなく、倉庫など施設がある場所へ赴かれ、御自らが
さてさて、嫁がSNSで仲良くしている人たちと梅田でランチ会だというので、車で送迎してあげた。大阪に出るのなら丁度良い、インテックス大阪にて開催の関西コミティアで、フォロワーさんの新刊を頂きに寄ろう。もうひとつついでに、奈良県境まで足を延ばして高安山に登ろう。ずーっと行こう行こうと思いつつ、なかなか機会を作れずにいたんだよ。
阪神高速大阪港線から東大阪線に入り、
akippaのケーブルカーの発車時刻まで少し余裕があったので、用意しておいた携行食を口にした。
山上へは近鉄
このケーブルカーがなかなか見どころがあった。踏切が二つあるし、トンネルにカーブもある。徐々に見えてくる大阪平野とともに楽しめた。
ほとんどの乗客がバス停へ向かうなか、まずは高安城史跡案内石板を探す。あった、あった。石の模様で判読しづらいけど、近づけば読める。地図のほうは、とてもじゃないけど使い物にならないな。
よし、倉庫跡を目指そう。同じ方向へ歩き出す人は一人もいない。
ここから先は普通に登山道。ケーブルカーの時刻表に縛られながらのトレッキング。これが行く気を削いでいたものだ。
数分で開運橋。ルートから外れていないことを確認し、これを渡る。
すると高安山気象レーダー観測所が現れる。近畿地方の雨雲を観測している施設らしいけど、これには興味が無い。
その袂にある高安城跡の石碑に、価値を見いだす。レーダーの南側斜面には高安山古墳群があると聞く。藪漕ぎして山中へ分け入ってみたけど、限られた時間では見つけられなかった。こちらは主目的ではないから、良しとするか。
その先の分かれ道で、水分補給しつつ小休止。とそこへ、登山ルックのご夫婦がやってきて声をかけられた。この辺りに詳しいですか?と。僕も初めて来たと苦笑いで応じると、そうですかと笑い返された。
少し開けたところがあったから、そこから景色をしばらく眺めていた。すると、先ほどのご夫婦の声が聞こえてきて振り返ると、上から下りてくるのが見えた。あ、そうだ、山頂が近くにあるんだった。
電柱手前の柵に「高安山頂」の案内。これは見落とすよ。
ご夫婦の跡をなぞって高安山山頂へ。三角点をついつい確かめたくなるのは、山歩きあるあるだと思う。
頂上からの展望は無い。これもあるある。枝の隙間からレーダーは見えた。
また少し進むと、丸太階段があった。それには上らず右へ。
すると今度は車道が。うんうん、合っている。
車に注意しながら車道を渡って、獣除けの柵の脇からさらに奥へ行く。
「高安城倉庫阯」の案内が木に打ち付けてあった。目的地が近い。
その先の高安城倉庫阯1号は、目視で確認できる遺物は見当たらなかった。
高安城倉庫阯2号は礎石が露出している。
立派な「高安城阯倉庫礎石群」の案内板も。
中でも「高安城倉庫阯」と刻まれた石碑は、堂々と起立していた。倉庫跡を発見した「高安城を探る会」は、天智天皇時代の高安城を追い求めていることが、その著書の文意から窺える。この遺構は奈良時代のもので、彼らのロマンを満足させるものではなかったかもしれない。だけど石柱の立ち姿は、なんだか誇らしげに感じられた。
高安城倉庫阯3号の礎石は整然と並んでいて、建物の規模を想起できる。
そしてその向こうには奈良盆地!
あの緑が薄くなっている山は若草山だろう。ということは、その手前に平城京が広がっているはず……
高安城倉庫阯4~6号はまた、見えないようだ。4号の文字は後付けで判りにくい。発見された倉庫は6棟。これで全部か。駅方面に戻りつつ、時間が余っていたから再度古墳群を捜索してみたが、やはり見つけられず。
最後に、高安山駅すぐ南にある展望台へ。その途中、ちらっとゴジュウカラを見かけた。一瞬だったけど、出会えただけ良かったかな。
展望台からは大阪平野、さらには大阪湾まで一望できた。こうして東西の眺望をこの目で確かめて、城が築かれ、烽が設置されたことに納得。登って良かった。グランフロント大阪南館の『おぼん食堂16』で嫁と合流し、夕食。ヘルシーな一汁十二菜膳を食べながら、ランチ会・お茶会のことを聞かせてもらった。
それにしても、梅田ど真ん中の道路はややこしい。臆せず走れるようになったけどね。
阿閇ちゃんが立ったかもしれない場所、阿閇ちゃんが見たかもしれない景色。やっぱり、現地に行ったからこそ動く感情ってあるなぁ。お引越し後最初の史跡巡りが推しゆかりの地っていうのも、良い区切りになったよ。
【参考文献】
関根淳「元明朝の高安城行幸」『紀尾井史学 (15)』上智大学大学院史学専攻院生会,1995年
高安城を探る会『夢ふくらむ幻の高安城 (7)』高安城を探る会,1992年
関根淳「元明朝の高安城行幸」『紀尾井史学 (15)』上智大学大学院史学専攻院生会,1995年
高安城を探る会『夢ふくらむ幻の高安城 (7)』高安城を探る会,1992年