「お伊勢参りは外宮から」はいつ“ならわし”になったのか

2026年7月18日土曜日 21:55
伊勢神宮の公式サイトには、内宮と外宮の参拝順について、次のように記されている。
特に決まりはありませんが、外宮から内宮の順にお参りするのが昔からのならわしです。
また別のページでは、神宮の祭典は外宮で先に祭儀を行う「外宮先祭」をならわしとし、その祭典順序にならって、参拝も外宮から内宮へ進むのだと説明している。
僕もこれまで、伊勢神宮は外宮から参るものだと漠然と思っていた。
ところが今回の伊勢旅行でも、日程の都合から内宮を先に参拝することになった。そこで改めて、「外宮からがならわし」とは、どれほど古くから確認できるものなのか調べてみた。
結論から言えば、話はそう単純ではなかったんだよね。

まず、神宮の祭祀において外宮を先にする順序が古いこと自体は疑いない。
『延喜式』には、神宮の神職らが正月に拝礼するとき、「先づ度会宮を拝し、次に太神宮、次に諸宮を拝す」とする記述がある。度会宮は外宮、太神宮は内宮のことだ。
また、朝廷から遣わされる勅使も、原則として外宮、内宮の順に参向した。これが外宮先祭に由来するものなのか、勅使の参向順序として定着したものなのか、それとも両者を厳密に分けられないものなのかは、ひとまず決めきれない。
しかし、神宮の祭祀や神職の拝礼、皇室・勅使の参向において、外宮を先にする「古例」が確かに存在したことは認めてよいだろう。

では、一般の参詣者も古くから外宮を先に参ることを作法としていたのか。
江戸時代から明治時代の参宮案内書を調べてみると、外宮から内宮へ進む行程は何度も現れる。宮川を渡り、山田の外宮へ参拝し、古市を通って宇治の内宮へ向かう。鉄道開通後も、山田駅に着けば目の前に外宮があり、そこから内宮へ進むのが自然だった。
つまり、外宮から内宮という順序は、長く標準的な参宮行程だった。
だが、不思議なほど「外宮を先に参るのがならわしである」とは書かれていない。
これらの案内書は、参宮の作法に無頓着だったわけではない。外宮の北御門から入るのは便利だが、表参道の第一鳥居から入るのが「本式」「本儀」であること、身を清めるべきこと、参拝時に慎むべきことなどは、かなり明確に記している。規範として伝える必要があることは、きちんと規範として書いているのだ。
それでも、両宮のどちらを先に参るべきかについては沈黙している。
おそらく当時は、わざわざ説明する必要がなかったのだろう。山田へ到着すれば、外宮が先になる。それは作法以前に、地理的に自明な順路だった。
内宮から参拝した古い日記も残っている。外宮先行が一般参詣者を拘束する絶対的な規則でなかったことも確かだ。

明治四十一年、帝国鉄道庁運輸部発行の『夏季旅行案内 西部』は、この状況を実に分かりやすく説明している。
参拝の順序は各人の任意なれども、勅使参向の大祭は、悉く外宮を先とし、内宮を後とせられて居る。世人参詣の路筋よりしても先づ外宮を拝するが便宜であろう。
一般参拝者の順序は自由。ただし、勅使は外宮を先にするし、道筋から考えても外宮からのほうが便利だ。
古い祭祀秩序と、近代旅行の実用的な順路を並べながらも、両者を直接結びつけてはいない。勅使が外宮を先にするから、一般参拝者も従わなければならない、とは言っていないのだ。

その翌年、明治四十二年に神宮権禰宜の松木時彦が著した『神宮提要』は、この「順序は任意」という説明を明確に批判している。
同書は、官祭と臣民の私拝は別であり、一般参拝者は内宮・外宮のどちらを先にしてもよいとする案内書の説を紹介したうえで、それは神宮古来の礼法にかなわないと反論する。
さらに附録の「神宮参拝心得」では、外宮先祭、天皇・皇族の御参拝、勅使・奉幣使の参向を根拠として、伊勢参宮者も外宮を先に拝すべきだと強く説いている。
ここではじめて、

神宮の祭祀や皇室の先例 → 一般参拝者も外宮から参るべき

という論理が、はっきり組み立てられた。
ただし、『神宮提要』は神宮司庁の公式規則ではなく、現職神職による個人著作である。
しかも、その後の神宮司庁編『神宮綜覧』では、「参拝者心得」を設けながら両宮の参拝順序に触れていない。神宮公式が一貫して外宮先参りを一般参拝者へ求めていた、とは言えないのだ。

明治天皇の両宮御参拝も、外宮、内宮の順だった。
だが、それさえ初めから疑う余地のない古例だったわけではない。明治十一年から十三年にかけての御巡幸準備では、皇祖天照大神を祀る内宮を先に参拝するのが至当ではないか、という建議が神宮側から出された。
これに対して宮内側は、明治二年・五年の先例どおり、豊受宮を先に参拝すると通知した。神宮司庁編『神宮要綱』は、「古来の例」ではなく、あくまで「先例通り」と記録している。
つまり、祭典は外宮が先でも、天皇の「参拝」は内宮が先でよいのではないか、という考えが神宮内部にも存在したのだ。
後世には、この出来事が「明治天皇が内宮先への進言を退け、古例を守られた」という美談として語られるようになるが、当時の公式記録はもっと事務的である。

一般参拝者に対する「ならわし」という言葉が明確に現れるのは、昭和十年の教育関係資料だった。
文部省の『小学国語読本』巻五には、伊勢を訪れた児童の便りとして、
きのふ、午後、こちらへついて、外宮へおまゐりし、けふは内宮へおまゐりしました。
とある。教科書本文は、外宮、内宮の順に参った事実を述べているだけだ。
しかし東洋図書が出版した『小学読方教育書』という教師用解説書では、
正式の順序は古くから、初に外宮、それから内宮に参拝するならはしになつてゐる。
と説明された。
ここで興味深いのは、同じ解説書が、一般旅行者は二見から内宮へ向かい、その後に外宮へ参ることが多いとも書いていることだ。
つまり、「古くからのならわし」と明記された時点で、現実の旅行者はすでに、その順序に従わなくなりつつあったのだ。
「ならわし」という言葉は、皆が当然のように実践していたから必要になったのではない。かつて自明だった行動が、自明でなくなったからこそ必要になったのだろう。

戦後、参宮者の移動手段は鉄道から自動車へ変わった。山田駅に到着し、まず外宮へ向かうという従来の動線は崩れ、伊勢自動車道や国道から内宮へ直接向かう参拝者が増えた。
神宮の参拝者統計では、明治二十八年から昭和二十八年まで外宮参拝者が内宮を上回っていたが、その後逆転し、差は次第に拡大した。
平成七年の神宮広報誌『瑞垣』は、内宮だけを参る「片参宮」の増加を問題にしている。
ここで強調されているのは、外宮を必ず先に参れということではない。
“お伊勢参り”とは、外宮、内宮の両宮に参拝してこそ言えることで、外宮を除いたお伊勢参りは成り立たなかった
ということだった。
問題の中心は順序ではなく、外宮そのものが省略されることだったのだ。

余談だが、内宮への参拝者の集中を考えるうえで、意外だったのが「おかげ横丁」の存在だ。おかげ横丁は、赤福の社長だった濱田益嗣氏を中心に、伊勢を盛り立てようと内宮前に整備された施設である。
その成功は伊勢観光全体に大きく貢献した一方、参拝者を内宮周辺に長く滞在させ、外宮との偏りをさらに広げる一因にもなったようだ。
平成十年の『瑞垣』は、内宮への車の集中について述べるなかで、
これに近頃「おかげ横丁」なる施設が内宮近くに開設されて、参拝者がその方面へと相当流れて
と、かなり率直に記している。
内宮に参拝し、おはらい町やおかげ横丁で食事や買い物を楽しめば、限られた旅行時間はそこで尽きてしまう。伊勢を盛り立てるための大成功が、外宮周辺にとっては新たな課題を生んだというのだから、地域振興とはなかなか一筋縄ではいかない。

外宮参拝者の減少は、外宮周辺の衰退にも直結した。地元では外宮周辺のにぎわいを取り戻す活動が始まり、やがて伊勢市、商工会議所、観光協会などを巻き込んだ地域政策へ発展していく。
平成二十一年度には、
お伊勢参りは外宮から内宮へ
という標語を、バス、チラシ、高速道路の横断幕で周知する外宮誘客事業が実施された。
調査では、外宮を訪れた人の約四割が「外宮から内宮へ」というならわしを知らなかった。一方、それを知った人の六割以上が、次回は外宮から内宮の順に参りたいと回答した。
事業報告は、「ならわしの周知徹底が外宮活性化に有効」と率直に記している。
翌年の伊勢市駅前再生検討委員会では、
伊勢市のみなさまが「外宮からの参拝が正式ですよ」と運動をしている
と、民間事業者から報告されている。
外宮先参りは、ここで改めて、外宮へ人を誘導するための地域的な言葉となった。
僕はこれを、“自明でなくなった「ならわし」の再発見”と呼びたい。
ただし、何もないところから新しい伝統を作ったという意味ではない。古くから存在した外宮先祭、神職や勅使の拝礼順序、皇室の参拝先例、そして長く続いていた地理的に自然な外宮から内宮への行程。それらを一つに束ね、現代の参拝者に意味のある伝統として再提示したのだ。

神宮司庁発行の資料でも、説明は長く統一されていなかった。
昭和三十年の『伊勢信仰と民俗』は、外宮先祭と一般参宮を結びつけている。
ところが昭和五十三年の携帯用公式ガイド『お伊勢まいり』は、
神宮参拝には、順路として外宮からされるのが便利である。
とだけ説明している。少なくともこの段階では、神宮の実用案内はなお、外宮先行を「便利な順路」としていたのだ。
平成十年代になると、『瑞垣』では外宮参拝者の減少や片参宮が繰り返し取り上げられ、平成十一年には、外宮から参って内宮へ進むことは、
神宮の祭祀の在り方にならったものとして、意味のあること
と説明される。
そして平成二十一年以降、地域行政や商工関係者が「外宮から内宮へ」を積極的に周知するようになる。
平成二十四年には、神宮が外宮域内にせんぐう館を開館した。翌年の資料では、せんぐう館が外宮参拝者の増加に寄与したとされ、地域団体も「参拝のならわしである『外宮から内宮』の本来の意味を正しく伝えたい」と語っている。
現在、神宮公式サイトは、「特に決まりはない。しかし昔からのならわしである。外宮先祭の順序にならったものである」と説明している。命令ではなく、従うことが望ましい伝統として示す、柔らかな規範だ。

外宮先参りは、近年突然作られたものではない。神宮の祭祀や勅使参向における外宮先行には、確かな古例がある。一般参詣者も、地理上の事情から長く外宮、内宮の順に参ることが多かった。
ただし、それが一般参拝者の守るべき「昔からのならわし」として明確に語られるようになるのは近代以降であり、神宮公式が一般向けの規範として前面に掲げるようになるのは、さらに新しい。
その背景には、車社会の到来によって外宮が参宮の動線から外れ、内宮だけを参る片参宮が増加したことがあった。
だから本来、大切なのは外宮と内宮のどちらを先に参るかではないのだろう。
伊勢の神宮は、皇大神宮と豊受大神宮を中心とする一つの神宮である。外宮を先にする「ならわし」の再発見は、順序を取り締まるためではなく、忘れられかけた外宮を再び参宮の中へ戻し、両宮を参ってこその「お伊勢参り」を取り戻すためだったのではないだろうか。
僕たちが今回、内宮から外宮へ参ったとしても、それで神宮への崇敬を欠いたことにはならない。
決まりではない。けれども、なぜ外宮からと語られるようになったのか。その歴史を知ったうえで両宮に参るなら、ただ「作法を守った、破った」という話よりも、ずっと豊かな参宮になると思う。

そんなわけで、今回の参宮も内宮から外宮へ。

翌朝は4時20分起床。時間をたっぷり使った前夜のディナーのおかげで就寝が遅くなり、さすがに睡眠不足が少々つらい。それでも、内宮の参拝開始時間には間に合わせたかった。
内宮A1駐車場に着いたのは、5時の5分前。宇治橋鳥居の前では、数組の参拝客が柵の開くのを待っていた。
やがて衛士さんが柵を除け、宇治橋を渡る。
早朝参拝も三度目になると、以前のように何度も足を止めてカメラを構えることはなくなった。まだ静かな参道をそのまま歩き、御手洗場で心身を清めたら、寄り道せずに正宮へ向かう。
ところが、朝の5時だというのに思いのほか暑い。キジバトの声を聞きながら玉砂利を踏みしめていると、じわりと汗がにじんでくる。風がほとんど通らず、体の内側に熱がこもっていくようだった。こまめに水分を取りながら歩く。

そうして御幌の前に立ち、二礼二拍手一礼。
柏手がきれいに鳴った。こういうときは、ちょっと嬉しい。

参拝を終えると、今年も正宮の隣にある御敷地を眺めた。毎年ここを訪れていると、次の遷御せんぎょの儀へ向けて、一年ずつカウントダウンをしているような気分になる。

参拝後のお楽しみは、『赤福』本店の赤福盆。座敷に上がっていただくことにした。
座敷には、竹を編んだような敷物が敷かれている。たったそれだけのことなのに、目に入った瞬間、いかにも涼しげに感じられるから不思議なものだ。
座ったばかりのころは汗がだらだらと噴き出していた。それでも赤福を食べ、冷たいお茶を飲みながら休んでいると、ふっと体が軽くなり、まとわりついていた暑さまで引いていった。
正宮への参拝を終え、緊張がほどけたからなのだろう。たぶんそうなのだけど、ここは赤福効果だったことにしておきたい。
そろそろお茶を飲み終えようかというところで、店員さんがおかわりを注いでくださった。にこやかに「ごゆっくり」と言葉を添えてくれる。
旅は、やっぱり人が大事だ。
営業としての言葉だったとしても、心からの気遣いだったとしても、こういうふうに接してもらえば、そのお店を好きになってしまう。僕はもう、すっかり赤福のファンである。

汗も引き、新橋越しに昇ってきた朝陽を眺めているうちに、ようやく早朝参拝らしい清々しさが体に戻ってきた。

続いて外宮へ向かう。
6時を過ぎ、こちらにもすでにそこそこの数の参拝客がいた。参道を歩き始めると、またしても蒸し暑さが襲ってくる。風さえ吹いてくれればずいぶん違うのだろうけど、止まっているとさすがにしんどい。

正宮で拝礼する。
以前のように緊張しすぎることはなくなった。それでも正面に立てば、自然と背筋が伸びる。

参拝を終え、駐車場へは北御門参道から戻ることにした。
忌火屋殿の前を通ったとき、ふっと煙の匂いが漂ってきた。
日別朝夕大御饌祭のため、神職さんは毎朝、火鑚具を使って火をおこしている。すでに煙そのものは見えなかったけど、その残り香を感じられたのだと思うと、なんだか少し嬉しくなった。

これで、今回の参宮は終わり。
いったんホテルへ戻り、しばらく休憩した。

それから9時前、今度は僕ひとりで再び外へ出る。目当ては、期間限定の「土用さわ餅」だ。
『五十鈴茶屋』などで販売される夏のお菓子なのだけど、販売期間はわずか12日間。ちょうどその時期に伊勢へ来ているのだから、これはぜひ食べておきたい。
前日の昼過ぎにも『赤福』外宮前店を訪れたものの、すでに売り切れていた。そこでこの日は、開店と同時に再挑戦することにした。
開店前から長蛇の列ができていたわけではない。ところが9時になった途端、カフェや土産物売り場を目指す人たちが、いっせいに店内へ流れ込んでいく。
これは争奪戦になるかと思ったけど、土用さわ餅目当ての人は意外と少なかった。おかげですんなり購入できた。
その足で『伊勢百貨店』にも立ち寄り、両実家へのお土産を見繕う。目的をすべて達成し、意気揚々とホテルへ戻った。

10時過ぎにチェックアウトしたら、今年も松阪の『和田金』へ。
訪れた日は、ちょうど松阪祇園まつりの開催日だった。松阪三大祭りの一つで、牛頭天王信仰に由来する祭礼が、現在では八雲神社・松阪神社・御厨神社の三社みこしとして受け継がれているそうだ。
祭りに伴い、和田金前の道路も車両通行止めになる。そのため予約時に、少し離れた丸屋根の駐車場を利用するよう案内されていた。
交通規制が始まる前に到着できたものの、道路の両側では露店の準備が着々と進んでいる。今はまだ静かでも、もう少しすれば、この一帯もずいぶん賑やかになるのだろう。

今回の食事では、寿き焼の「松」と「竹」を一人前ずつ頼み、二人で食べ比べることにした。
運ばれてきたお肉を見ても、素人目にはさっぱり違いが分からない。
ところが面白いもので、口に含んだ途端、はっきりと差が出る。同じリブロースのはずなのに、松のほうが柔らかく、肉の甘みも濃く感じられた。
担当してくださった仲居さんも感じのよい方だった。やっぱり、ここでも人が大事だね。
それにしても、このお店には美女しかいない。

食事を終えたあとは、3時間ほどかけて帰宅した。
カーナビは、瀬田東JCTから京滋バイパスへ入るルートを選んだ。また名神高速が混んでいて、それを避けてくれたのだろうか。

家に着いたら、ティータイムにさっそく土用さわ餅の箱を開ける。……4個入りだったんだ。
食べたい一心で買ったので、箱を開けるまで個数を確認していなかった。おいしいのだから高いとは思わないけど、それでも4個で1,000円かぁ、とはなる。
涼やかなパッケージから想像していたとおり、甘さはやさしい。お餅に、ごま風味のつぶあん。組み合わせを考えると「さっぱり」と言うのは少し違うのだけど、甘さがしつこくないので、次のひと口がすぐに欲しくなる。
気がつけば、あっという間にぺろりと平らげてしまった。

これで、今年の伊勢旅行もおしまい。
参拝順を調べ始めたときは、ただ自分たちの回り方が作法に反していないか確かめたいだけだった。それがいつの間にか、「昔からのならわし」とは何なのかを考えるところまで話が広がった。
だけど、旅を振り返って心に残るのは、順序の正しさばかりではない。
早朝の宇治橋、忌火屋殿に残る煙の匂い。汗だくで食べた赤福盆、ようやく買えた土用さわ餅、今年も味わえた和田金の寿き焼。
作法や歴史を知ることで、参宮の見え方は確かに深くなる。でも、暑かったことも、眠かったことも、4個で1,000円だったことも含めて、今年も僕たちらしいお伊勢参りになったね。

【参考文献】
講古堂主人『伊勢参宮按内記』藤原長兵衛,1707年
高松軒飯袋『抜参道しるべ』中野宗左衛門,1707年
芙蓉山人『伊勢参宮細見大全』梅村三郎兵衛,1766年
秋里籬島『伊勢参宮名所図会』塩屋忠兵衛,1797年
杉本隆重『伊勢参宮ひとり案内』黒瀬正親,1881年
大矢剣居『伊勢参宮道中独案内』吉岡平助,1889年
東吉貞『神都名勝誌』吉川半七,1895年
鉄道庁『夏季旅行案内 西部』帝国鉄道庁運輸部,1908年
松木時彦『神宮提要:明治四十二年式年御遷宮記念』神宮提要発行所,1909年
神宮司庁『神宮綜覧』国史研究会,1915年
神宮司庁『神宮要綱』神宮司庁,1928年
文部省『小学国語読本 尋常科用 巻五』日本書籍,1935年
馬淵冷佑『小学読方教育書 尋常科用 巻五』東洋図書,1935年
神宮司庁『神宮参拝記大成』西濃印刷,1937年
井上頼寿『伊勢信仰と民俗』神宮司庁教導部,1955年
神宮司庁『お伊勢まいり 訂正五版』神宮司庁,1978年
神宮司庁『瑞垣 (171・179・181・182・184)』,神宮司庁,1995–1999年
伊勢元気再生事業推進協議会『平成21年度 地方の元気再生事業 事業実施調書「伊勢地域の歴史・文化資源を紡ぐ」伊勢の創造事業』伊勢元気再生事業推進協議会,2010年
伊勢市『平成22年度 第1回伊勢市駅前再生検討委員会 議事要旨』伊勢市,2010年
東海財務局津財務事務所『地方経済トピック 式年遷宮で盛り上がる三重』東海財務局津財務事務所,2013年

サイト内検索