神倉神社 神武東征と熊野の原初

2026年4月2日木曜日 21:51
和歌山県新宮市神倉にある神倉神社かみくらじんじゃ。熊野の神々をたどる流れの中で、いよいよその起点ともいえる場所へ行ってきたよ!

すでに「熊野本宮大社」のエントリーで見てきたように、本宮は、熊野川に根ざした水の信仰を基盤としながら、在地の自然崇拝の場から王権の宗教秩序の中へと組み込まれていった場所だった。また、その中心に祀られる「家都御子神」は、本来この地に根ざした地主神であり、後にスサノオの神格と重ねられて理解されるようになっていったと考えられる。
また、「熊野那智大社」のエントリーで見てきたヤタガラスについても触れておきたい。神武東征神話において導き手として描かれるヤタガラスは、必ずしも当初から熊野信仰と強く結びついていたわけではない。むしろその本質は、山中において道案内を担う「郷導者」の役割を神話的に表現したものと捉えることができる。人間的な機能と神的な権威とが重ね合わされた存在であり、熊野における神鳥としての位置づけも、こうした性格が後世の信仰実践の中で強調されていった結果なのだろう。

こうした熊野信仰の構造を踏まえたうえで、あらためて神武天皇神話に描かれた熊野の姿に目を向けてみたい。『古事記』では、神武天皇が「熊野村」において「熊野山の荒ぶる神」によって病に倒れたと語られる。『日本書紀』では、神武天皇は「熊野の神邑」に至り、「天磐盾」に登ったと記されている。これらの地名表現は、現在の新宮市あたりを指すものと考えられ、「天磐盾」は神倉山のゴトビキ岩に比定される。
「熊野の神邑」と記されていることから、編纂当時(奈良時代前期)、熊野の中でも新宮地方の神が王権に認識されていたことがうかがえる。
とはいえ、この段階では、のちに熊野三山の中心となる本宮の存在は、まだ十分には把握されていなかったようにみえる。『新抄格勅符抄しんしょうきゃくちょくふしょう』によれば、天平神護の頃(奈良時代後期)に封戸が充てられたのは「熊野牟須美神」と「速玉神」であり、いずれも新宮に関わる神であったとみられる。この二神は対をなす存在として理解され、当時、王権に把握されていた熊野信仰の主要な構成要素をなしていた可能性が高い。

その後、貞観元年(平安時代前期)に、「熊野早玉神」と「熊野坐神」が神階を授かったと『日本三代実録』に記されている。この時点で、新宮と本宮の双方が王権に認識される存在となっていたことがわかる。
ただし、その記載では「熊野早玉神」が先に挙げられており、新宮の神が先行して把握されていた状況もうかがえる。

延喜の頃(平安時代中期)になると、『延喜式』「神名式」に「熊野早玉神社」と並んで「熊野坐神社」が官社として記載され、両社は制度的にも並び立つ位置を占めるに至ったが、ここでも「熊野早玉神社」が先に掲げられている。こうした記載順は、本宮がやや遅れて王権の認識に加えられていった経緯を示唆するものと思われる。
なお、「熊野早玉神社」は本来「熊野牟須美神」と「速玉神」の二座を祀る神社であったはずであるにもかかわらず、官社として扱われたのは「速玉神」の一座のみであったとみられる。この点は、熊野の神々が王権の認識の中に取り込まれていく過程で、その位置づけが次第に整理されていったことを感じさせるね。

こうした王権における熊野の理解が、主として新宮の神を中心に形づくられていたことを踏まえると、神武天皇神話の中で熊野がどのように語られているのかが、あらためて重要な意味を帯びてくる。
ここで重要なのは、「荒ぶる神」という表現だ。この荒ぶる神は、熊野の山中に潜む強大な神霊として描かれ、その性格はスサノオの神格と重なり合う。熊野におけるスサノオは、暴風雨をもたらす神であり、また他界とこの世の境に立つ存在として理解されてきた。神武天皇が熊野で病に倒れ、やがて神剣によって回復するという物語は、熊野の神がもつ死と再生、常世との往還という宗教的イメージを色濃く反映しているとみられる。
神倉山の磐座信仰は、熊野信仰の中でもきわめて古層に属する。巨岩そのものが神の依代とされ、山中他界への入口として意識されてきた。この磐座に登る行為は、海の彼方にある常世と通じ合うと同時に、山の奥に広がる根国を鎮める行為でもあった。神武神話における熊野平定は、単なる武力制圧ではなく、熊野という他界的空間に宿る荒ぶる神霊を鎮撫する宗教的行為として描かれているといえるんだよ。

熊野においてスサノオは、台風や暴風雨をもたらす神として畏れられ、また常世と根国の境に現れる存在として信仰されてきた。神武天皇が遭遇した熊野の荒ぶる神とは、そのようなスサノオ的神格が、熊野の山中において顕現した姿だったと考えられる。
熊野三山に息づく神話と信仰は、山と海、死と再生、この世と他界とが交錯する場として、この地が古くから特別な意味を与えられてきたことを、今も静かに物語っているんだね。

思い返せば、本来は熊野速玉大社や阿須賀あすか神社とあわせて訪れるはずだった場所。あの日は大雨に阻まれ、足を運ぶことができなかったけど、こうして時間をおいて訪れたことで、この場所の意味が、かえってくっきりと浮かび上がった気がする。
七里御浜に沿って続く路をなぞるように、新宮の町へと再び向かっていくことにしよう。

時刻は11時半過ぎ。参拝の前に、昼食を摂ることにした。向かったのは『総本家 めはりや』新宮本店。郷土料理の「めはりずし」はこの旅に欠かせないし、どうせなら名店で食べておきたいと思っていたんだよね。
店舗前の駐車場はやや狭いが、幸い西側に空きを見つけることができた。60年以上続く老舗ながら、8年前にリニューアルしたらしく、店内は明るく清潔感がある。

二人とも、おためしセットを注文。めはり・串カツ・おでん・山芋造りと、少しずついろんな味を楽しめるのが嬉しい。
「めはりずし」は、塩で漬けた高菜で大きなおにぎりをくるんだもの。中にも高菜の芯が入っていて、しっかり味付けされている。郷土料理らしい素朴な味わいながら、確かに美味しい。

腹ごしらえを終え、神倉神社へ向かう。第1駐車場は目と鼻の先だ。平日の昼下がりにもかかわらず何台か停まっていたが、まず空きがあり、ひとまず安堵する。

近くにきれいな公衆トイレがあることも下調べ済み。登拝前にお手洗いを済ませられるのはありがたい。

神橋を渡って境内へ。正面に鎮座するのが猿田彦神社と神倉三宝荒神社。無事に登って、無事に下りてこられますようにと手を合わせる。

その先には、天磐盾顕彰碑が立っていた。

ここで、あわせて触れておきたい顕彰碑がある。ひとつは阿須賀神社境内にある神武天皇聖蹟熊野神邑顕彰碑。

もうひとつは、国道42号沿い、佐野王子跡の隣にある神武天皇聖蹟狭野顕彰碑だ。
『日本書紀』によれば、神武天皇東征の際、戊午年の六月、皇軍を率いてナグサトベを誅したのち、ついに「狭野さの」を越えたとある。そして「熊野の神邑」に至り、「天磐盾」に登ったというのは前述のとおり。
こうした経緯があるので、本来は同じ日に巡っておきたかったんだけど、天候には逆らえなかったわけだ。

この日は晴天。急峻な石段もすっかり乾いている。これなら安全に登れそうだ。

鳥居の前には、「石段を上がられる方へのご注意」という立て看板。それほど危険を伴う場所であり、気軽な観光気分で来るところではないということだ。
僕らは万全の準備で臨んだ。天候を選んだのはもちろん、靴は履き慣れたスニーカー。持ち物はリュックにまとめて僕が背負い、嫁は手ぶら。リュックの中には滑り止めの付いた軍手と、登山用のダブルストックまで入れてある。

見る者を圧倒する538段の石段。この自然石を積み重ねた「鎌倉積み」の石段を「壁」と表現した人がいるが、なるほど言い得て妙だと思った。
さあ、気合を入れて登っていこう。嫁のペースに合わせて、一歩ずつ足をかけていく。
ところがだ。思っていたほどの苦労は感じない。確かに歩きにくさはあるが、歩きやすいルートを見つけて足を運ぶ感覚は、登山のそれとほとんど同じだ。昔、嫁と低山ハイクを繰り返した日々が、こんな形で役に立つとはね。結局、持参した道具も使わずに済み、かなり身構えいたぶん、二人とも拍子抜けした。

急勾配を上りきると、踊り場のような平地に出る。そこには二宇の小祠があった。

向かって左には「火神社」と刻まれた石柱。御燈祭おとうまつりという毎年2月の夜に行われる神倉神社の例祭では、白装束に荒縄を締めた数千人のあがり子が、燃え盛る松明を手に山頂からこの石段を一気に駆け下りるという。この御神火と関係するお社なんだろうか。
速玉大社の境内社である新宮神社には、新宮町内の末社18座が合祀されているが、その中に、かつて雑賀町にあったカグツチを祀る「火之神社」が含まれている。この神倉山の火神社も、新宮系の接続点なのかもしれない。

右手は「中ノ地蔵堂」。軽く調べたところ、麓の妙心寺の造営勧進により、かつては千体ほどの地蔵が祀られていたが、明治期の廃仏毀釈で谷間に打ち捨てられたという。
妙心寺は神倉神社の神宮寺であり別当寺。神倉神社はもともと妙心寺の本願であり、その御本尊・愛染明王が神倉神社の本地仏とされる。
つまりこの山は、神と仏が一体の構造をなしていた。山頂に神の依代としてのゴトビキ岩、中腹に仏の中継点としての地蔵堂、山麓に運営主体としての妙心寺。
中ノ地蔵堂は小さな祠となりつつも、火神社と鳥居を共有するかたちで神仏習合の姿を今に残し、参拝者を見守っているんだね。

その先の石段は、少しずつ傾斜が緩やかになっていく。

さらに進むと、また一段となだらかになる。

写真を撮りながらゆっくり登って、15分ほど。小さな鳥居が見えてきた。どうやら着いたようだ。
脇の石段の上にも小さなお社があったので、あとで寄ることにしよう。

ついに御神体、ゴトビキ岩と対面。写真で見てもすごいと思っていたけど、実際に目の前に立つと、その異様さに圧倒される。
ともあれ、神倉神社を参拝。御祭神は高倉下命たかくらじのみこと
原始的な巨石信仰として花の窟と並べて語られることも多いが、こちらにはまた別の神秘性がある。ちょうど桜が咲いていて、その存在感を少し和らげていた。

ここからは市街地の向こうに熊野灘が望める。この聖地もまた、海へと向かって開かれていることを実感する。

石の裏からお参りすると直接触れられるパワースポットとして知られているらしいが、自分たちはそういう見方はしていないので、今回はパスした。

後回しにしていたお社へ向かうと、「満山社」と石柱に記されている。江戸後期に紀州藩が編纂した『紀伊続風土記きいぞくふどき(文化三年(1806)仁井田好古にいだこうこ)』によれば、中ノ地蔵堂などとともに神倉神社の末社だったという。
満山社といえば、本宮大社の神門内にもあった名前だ。そちらの御祭神は八百万の神とされていたが、名前の通り「山全体に満ちる神」、万物に宿る神という意味合いなんだろう。
それがこの神倉山にも鎮座している。『熊野権現御垂跡縁起』において、熊野で最初に降臨した地として神倉山が記されているように、熊野信仰はじまりの地という認識が、本宮や新宮で共有されてるんだろうね。

下りも嫁のペースで。上りより下りるほうが大変かと思っていたが、多少慎重になる必要はあるものの、それほどでもなかった。10分ほどで無事に下りることができた。
案ずるより産むが易い。登拝を終えた安堵と達成感を、嫁と分かち合う。

最後の目的を達したら、あとは帰るだけ。ただ、往路と同じ道では少し味気ない。
せっかく神武東征の伝承地に立っているのだから、そのルートになぞらえて、国道168号で山中を縦断して帰ろうじゃあないか。所要時間も大きくは変わらない。嫁もすぐに賛成してくれた。
熊野川の上流へ向かって走り、本宮大社の前を通過する。信号もほとんどなく走りやすい道だが、そのぶん地元の車はビュンビュン飛ばす。何度か路肩に寄せて道を譲ることになった。
奈良県十津川村に入ると、センターラインのない狭い区間もあるが、離合可能な場所もあり、そこまで神経を使うほどではない。やがて整備された道路に戻り、長いトンネルを抜けていく。
途中、「五條新宮間の抜本的道路改良整備を!」と訴える看板も見かけた。まさに整備が進められている最中なんだろう。

道の駅十津川郷でひと休み。トイレを済ませ、併設のヤマザキショップでドリンクなどを買い足す。
十津川村北部まで行くと、またところどころに狭路が現れる。特にとある橋では、信号を使って片側交互通行が行われていた。そうした配慮もあり、全体としてはいわゆる“酷道”という印象は受けなかった。

やがて五條市に入り、大川橋で吉野川を渡る。このあたりはまさに、『古事記』にいう「吉野河の河尻」にあたる場所だ。ついに大和まで来たのだと思うと、少し感慨深い。
『記』『紀』ではわずか一行で済まされているけど、この道程は決してそんなにあっさりしたものじゃない。車で走っていてさえそう感じるのだから、徒歩での東征がどれほどのものだったかは想像に難くない。あの一行の裏には、きっと多くの労苦があったはずだ。そんなことを実感できただけでも、この道を選んでよかったと思う。
五條ICから京奈和道に乗ってしまえば、あとは知った道。無事に帰宅することができた。
さすがに5時間のロングドライブでくたくた。夕食は近所のファミレスで済ませることにした。大きなペッパーハンバーグが濃い味を求めていた体に染みる。

熊野詣でを振り返ると、雨に始まり、川や海の気配に触れ、滝の前に立ち、そして花の窟や神倉山の巨石を見上げてきた。それぞれが点のままではなく、一つの流れとして身体に残っているような感覚がある。頭で組み立てていたもの以上に、現地で感じ取ったものの大きさに、まだうまく言葉が追いついていないのかもしれない。
正直、移動はかなり大変だったけど、それでもやっぱり行ってよかった。あの重みは、あの場所でしか受け取れないものだったと思うよ。

【参考文献】
網伸也「古代熊野信仰の原像を訪ねて」『民俗文化 (29)』近畿大学民俗学研究所,2017年
熊野市史編纂委員会『熊野市史』熊野市,1983年
那智勝浦町史編さん委員会『那智勝浦町史 (上)』那智勝浦町,1980年
松前健『日本神話の形成』出版,1970年
水野祐『出雲国風土記論攷』早稲田大学古代史研究会,1965年
宮地直一『熊野三山の史的研究』国民信仰研究所,1954年
和歌山県史編さん委員会『和歌山県史 原始・古代』和歌山県,1994年

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