アマテラスと伊勢神宮の成立について考察してみた~後編

2024年5月24日金曜日 05:00
後編は伊勢神宮について。当記事だけを読んでも内容的には理解できるようになっているけど、前編の冒頭に注意書きをしているので、そちらだけでも予め目を通していただければ。



では、伊勢神宮(内宮ないくう)が成立したのはいつか。『持統じとう紀』にみえる伊勢いせ志摩しまへの行幸が、その端緒だったと考えたい。

持統じとう天皇六年(692)、天皇は諸官に、『三月三日に伊勢いせに行こうと思う。この意を知って、色々の衣服を準備するように』と詔された。大三輪高市麻呂おおみわのたけちまろは、天皇の伊勢行幸が農時の妨げになるといさめ申した。日程が迫るなか、大三輪高市麻呂は職を賭して、重ねて諫めた。
しかし、天皇は諫めに従われず、遂に伊勢に行幸された。お通りになる神郡かみのこおり伊賀いが・伊勢・志摩の国造らに冠位を賜り、当年の調役を免除するなどした。十数日の行幸を経て、天皇は宮都にお帰りになった。」

伊勢へ行幸しながら、伊勢神宮を参拝した形跡がないともいわれるけど、前年には藤原宮造営に着手している。そんななか、ただの旅行に出かけたとは思えない。亡き夫の天武てんむ天皇が思い描いていた、皇室だけの祖神おやがみをお祀りする荘厳な神殿。その整備に向けた根回しを、自ら行ったんじゃないかと。
それじゃあ大三輪高市麻呂おおみわのたけちまろはなぜ、冠位を脱いでまで止めようとしたのか。大三輪おおみわ氏といえば、オオモノヌシを祖神とする有力氏族。『天武紀』朱鳥元年、崩御した天武天皇への弔辞でも、

布勢御主人ふせのみぬし阿倍あべ氏)・石上麻呂いそのかみのまろ物部もののべ氏)・大三輪高市麻呂おおみわのたけちまろ大三輪おおみわ氏)・大伴安麻呂おおとものやすまろ大伴おおとも氏)・藤原大島ふじわらのおおしま中臣なかとみ氏)

と、天皇に重用された人物として名を連ねている。面白いことに、ここに登場したのとほぼ同じ氏族が、『垂仁すいにん紀』のヤマトヒメが旅立つ前月に、天皇の「五大夫いつとりのまえつきみたち」という重臣として挙がっているのだ。

武渟川別たけぬなかわわけ(阿倍氏)・十千根とおちね(物部氏)・彦国葺ひこくにぶく和珥わに氏)・武日たけひ(大伴氏)・大鹿島おおかしま(中臣氏)

天武朝の重臣と比べて、大三輪氏と和珥わに氏が入れ替わっているだけ。持統天皇に諫言かんげんした大三輪氏が外されている、と言い換えてもいい。行幸が伊勢神宮の造営開始を意味するなら、大和やまとの地主神ともいえるオオモノヌシの祭祀を担ってきた大三輪氏として、黙って見ているわけにはいかなかったんじゃないかな。農繁期云々は表向きの理由で、旧来からの神祇じんぎ氏族として、皇祖神の転換という宗教改革を阻みたかったのでは。

伊勢神宮の成立過程を述べる前提として、『雄略ゆうりゃく紀』に出てくる、伊勢大神の祠に仕えた栲幡たくはた皇女の説話を確認しておこう。

阿閇国見あえのくにみが、『栲幡たくはた皇女を廬城部武彦いおきべのたけひこが汚して妊娠させた』と讒言ざんげんした。皇女は身の潔白を主張した。急に皇女は神鏡を持ち出して、五十鈴川いすずがわのほとりに行き、人の行かないところを選んで、鏡を埋め自殺した。天皇が皇女を探させると、川上に虹のかかった所があり、そこを掘ると神鏡が出てきた。そして近くに皇女の遺体があった。割いてみると、腹の中に水のような物があり、その中には石があった。これにより冤罪えんざいと判った。」

なんとも不思議な話で事実と考えられないのは当然だけど、斎王さいおうである栲幡皇女の身近に神鏡があったこと、皇女がこっそり独りで五十鈴川いすずがわのほとりまで行けたことに、注目したい。
ヤマトヒメの時に、「アマテラスが初めて天より降られたのが、五十鈴川のほとりに建てた斎宮いつきのみや」ということになっていた。とすれば、多気たけ郡に斎王の居所としての斎宮さいぐうが設置される以前、斎王が滞在していたのは、度会わたらい郡の五十鈴川の近くだったんじゃないか。そこに神鏡も安置されていたんじゃないかと。
天武天皇の代に斎王として派遣された大来おおく皇女は、天皇の崩御後大和に帰ってきていた(『持統紀』朱鳥元年十一月壬子)。代わりの斎王が差遣されることはなかった。そんななか、持統天皇の伊勢行幸は決行された。その後、藤原京へ遷都(持統天皇八年正月乙巳)。
『万葉集』に、その2年後の持統天皇十年(696)に亡くなった高市皇子たけちのみこの挽歌(巻2-199)が収められており、
渡会わたらい斎宮いつきのみや神風かむかぜ
という一節がある。ここでいう「渡会わたらい斎宮いつきのみや」は、度会郡の伊勢神宮を指している(斎王は伊勢にいないのだから、その居所としての斎宮ではない)。歌に詠まれているだけなので、純然たる神社建築がすでに建っていたのか、祭祀場をそう表現したのか、ハッキリしないけどね。
その後、持統天皇は孫に譲位し、文武もんむ天皇が即位。『続日本紀しょくにほんぎ』文武天皇二年(698)九月戊午朔条に、

麻続豊足おみのとよたり麻続おみ氏の氏上うじのかみ(首長)とし、麻続大贄おおにえすけ(次官)とし、服部佐射はとりのさい服部はとり氏の氏上とし、服部功子くうしを助とした。」

とあり、多気郡麻績おみ郷を本拠とする麻続おみ氏らの序列を定めている。麻績郷は、斎王の居所となる斎宮さいぐうが所在する多気郷に隣接する。斎宮エリアの氏族への配慮を済ませたところで、

「同年九月十日、当耆たき皇女を遣わして伊勢の斎宮に仕えさせた。」

当耆たき皇女はきっと、アマテラスの御魂みたまである鏡を携えていたことだろう。この頃には、度会郡の社殿も完成していたと考えられる。
そして最後の総仕上げ。

「同年十二月二十九日、多気たけ大神宮を度会わたらい郡に遷した。」

斎王にいたアマテラスの御魂は、多気たけ大神と呼ばれたんじゃないか。表象としてそれは鏡でもある。つまり、野外の祭祀場ではなく、建物としての神宮ができたので、鏡を常時置けるようになった。だから完成した伊勢神宮の正殿に、鏡を安置した。この瞬間こそが、伊勢神宮の成立といっていいんじゃないかな。

天武・持統朝に伊勢神宮が成立したとすれば、ヤマトヒメの流離譚りゅうりたんは何を表しているのか。ヤマトヒメのルートと、伊勢神宮の神田の分布とが一致するということもあるけど、それ以上に、壬申じんしんの乱との相関が強いように思う。
天武天皇の軍勢は、大和の吉野宮よしののみやを発って「菟田うだ」から抜け、「伊勢」に入ったあと、「美濃みの」に野上行宮のがみのかりみやを構え、「近江おうみ」へと侵攻する。このように、天武天皇軍の道のりが、ヤマトヒメの巡歴した地と重なるのだ。天武天皇の顕彰という意図もあるのかもしれない。

伊勢神宮では様々な年中行事が催されるけど、中でも本祭と目されているのが、神衣祭かむみそのまつり天岩戸あめのいわと神話でアマテラスが織っていたとされる「神衣」にまつわる、外宮げくうには無い内宮だけの祭典だ。『養老律令』の「神祇令」にも、

「・孟夏はじめのなつ神衣祭かむみそのまつり
「・季秋すえのあき:神衣祭」

と規定されている。『延喜式』「伊勢大神宮式」はもう少し詳しい。

「四月 九月 神衣祭
右、和妙にぎたえ衣は服部はとり氏、荒妙あらたえ衣は麻続おみ氏、各自ら潔斎けっさいして、祭の月の一日より始めて織り造り、十四日に至って祭に供える。」

ここに、斎宮のある地域を支配していた麻続氏と服部はとり氏が登場する。この二氏は、神宮の祭事にも深く関わっているのだ。
さらに斎宮周辺からは、6世紀中葉から8世紀後半に及ぶとされる、多数の土師器はじき焼成遺構が発見されている。しかもこの土師器は、一般集落だけでなく、斎宮や伊勢神宮の祭祀に供するためにあったとみられるんだとか。麻績郷から五十鈴川のほとりの祭祀場までは、15kmほど離れている。土器を運搬したとすれば、その生産遺構群が河川沿いに分布していることから、川を遡上する水運を利用した可能性がある。
崇神すじん紀』に、アマテラスが皇居の外で祀られることになったのと前後して、疫病が起こった際、その原因と解決方法をオオモノヌシが夢で天皇に教える場面があるのだけど、

「モモソヒメ・大水口宿祢おおみくちのすくね伊勢麻績君いせのおみのきみの三人が共に同じ夢をみたと申し上げた。」

という。この「伊勢麻績君いせのおみのきみ」は多気郡の麻続(麻績)氏のこととみられ、その勢力は『紀』に名を残すほどだったわけだ。内宮と外宮の禰宜ねぎを世襲した割には『記』・『紀』に一切登場しない、荒木田あらきだ氏や度会わたらい氏とは随分扱いが違う。
機織りの神格を持つと考えられるヨロズハタトヨアキツシヒメは、和妙にぎたえ荒妙あらたえを織るなど伊勢神宮の祭祀と密接な関係にあった、この氏族たちの氏神うじがみだったのかもしれない。そうした繋がりから、タカミムスヒの娘すなわちニニギの母神とされ、神宮の相殿の一柱としてお祀りされたのかもしれない。稚足姫わかたらしひめ皇女の栲幡皇女という別名もまた、神衣祭との関連から生まれたものかもしれない。
それに何より、神衣を織る女神の姿は、ヒルメとも重なる。ある意味、アマテラスの分身ともいえるのだ。

そもそもなぜ伊勢なのか。これは3つ考えられる。
1つには、『垂仁紀』のアマテラスの神託にて、

「この神風かむかぜの伊勢国は、常世とこよの波がしきりに打ち寄せる国である。傍国かたくにの美しい国である。」

と称えられるように、理想郷と観念されていたこと。大和から、日が昇る東へ向かって海に出る場所が、伊勢だ。現在でも、二見興玉ふたみおきたま神社の夏至祭禊や、伊雑宮いざわのみや御田植祭おたうえまつり神島かみしまのゲーター祭が催されるなど、古くから太陽信仰が盛んな地域でもある。ただし、これらのお祭りの起源が古代にまでさかのぼれるかは、別問題としてあるけど。少なくとも、アザカにおける太陽信仰は在ったとみたい。
2つ目は、天皇と皇族を中心とした政治(いわゆる皇親こうしん政治)を推し進めるため。少し抽象的な話になるけど、王権には「神聖性」と「世俗性」の二面があるとされる。壬申の乱を武力で制した天武天皇には、「世俗王」としての性格がある。そこへ、最高神としてアマテラスを据えることによって、「祭祀王」としての性格も強めた。その一方で、アマテラスを、政治の中心たる大和ではなく、少し離れた伊勢に祀り、天皇の代わりに斎王を派遣した。そうすることで、「神聖性」を担保しつつ祭祀からは距離を置いて、「世俗性」を大いに発揮できた。つまり、政治改革を次々と実行できた。そんな風にも捉えられる。
3つ目としては、東国への入口という地政学的な重要性。
雄略朝になると伊勢に関する記事が増えるとの指摘があるけど、南北に長いこの国にあってその舞台は北が中心だ。あるいは、内宮が提出した公式文書『皇太神宮儀式帳こうたいじんぐうぎしきちょう(延暦二十三年(804))』に「百船乎ももふねを度会」の語句がみえたり、度会の枕詞が「百伝ももづたふ」であることから、度会郡にたくさんの船が行き交うイメージが持たれもするけど、この地域に有力な港湾があった考古学的な証拠は見つかっていないそうだ。
では南伊勢で着目したいのがどこかというと、的形まとかた。現在の三重県松阪市垣内田町を含む、櫛田川くしだがわ下流域に比定されている。『伊勢国風土記』逸文に、

的形まとかたの浦というのは、この浦の地形が的に似ている。だからその名となっている。」

とある。『斉明さいめい紀』には、

百済くだら救済のため、駿河するが国に船を造らせた。それが終わって続麻郊おみのに引いてきた時、」

とある。「続麻」は「麻続」の誤字だろうから、伊勢国多気郡麻績郷のことで、櫛田川右岸下流域に広がるエリアだ。また、持統太上天皇は晩年三河みかわ国に行幸(『続日本紀』大宝二年十月甲辰)しており、『万葉集』にはそれにお供した舎人娘子とねりのおとめが作った歌(巻1-61)が載っている。
ますらをが さつ矢手狭み 立ち向かひ 射る円方まとかたは 見るにさやけし
(雄々しい男が、矢を指に挟み、立ち向かい、射るという円方の浜は、見るからに清々しい)
これらを総合すると、櫛田川下流域には的の形に似て円形をした天然の良港があり、そこは大型の外洋船も停泊可能で、駿河するがや三河など東国との往来に利用されていた、と読み取れる。
的形港は、古墳時代から機能していた可能性が指摘されている。となれば、天武・持統朝はもちろんのこと、大規模祭祀場を設けさせるなど伊勢への関与を強めた5世紀頃、王権がこの地を重視した理由の一つとしても挙げられるね。考古学的にも、的形を望む位置に佐久米さくめ古墳群が築かれており、大塚山おおつかやま古墳からは王権との関わりを示唆する金銅装こんどうそうかぶとが出土している。
それに、櫛田川右岸下流域といえば斎宮地域でもあり、麻続氏や服部氏の勢力圏。『新撰姓氏録しんせんしょうじろく』に、

「右京・神別:神麻績連かむおみのむらじ
「大和国・神別:服部連はとりのむらじ

とあり、畿内に同族がいることが知られる。その一部が港湾管理のために移り住んだのかもしれないし、擬制ぎせい的に同族関係を結び中央への影響力を得たのかもしれない。
さらに『皇太神宮儀式帳』には、

天智てんじ天皇三年(664)、多気郡の四郷を割いて飯野高宮村に屯倉みやけ(王権の直轄領)を立て、久米勝麻呂くめのかつまろを、評督領こおりのかみ(郡の長官)に任じた。そうして公郡とした。」

という記事もあり、伊勢神宮の神領である多気郡から、飯野郡を分割したことが判る。当地域の勢力を削ぐのが目的とみられるけど、飯野郡の範囲には的形が含まれる。主力港を奪われたことはダメージが大きかったろうし、王権としてはこの港を完全に自分たちの物としたかったんだろうね。

次に、地方神昇格の可否について。伊勢の地方神が皇祖神に昇格したのだとすれば、当然それまではその地方の人々から奉斎されてきたはず。宗教的・民族心理的に、氏神を取り上げるなんてことが起こり得たんだろうか。昇格説が有力といわれるなか、僕が最も引っかかった疑問がこれ。
でも、あり得るんだね……硬軟両様のしたたかな王権の施策が、ここにあった。
伊勢神宮の祭祀を実際に担ったのは、磯部いそべという漁に関する部民(集団編成された隷属民)出身の豪族たちだった。イセ(伊勢)という地名はイソ(磯)から来ているという。内宮の禰宜は荒木田氏、外宮の禰宜は度会氏がそれぞれ世襲した。この二氏に、南伊勢の内でも南方に勢力を持っていたとされる宇治土公うじのつちぎみ氏を加えた三氏が、悲運に見舞われたのかもしれない。
伊勢地方の事情となると、比較的新しい文献に頼らざるを得ないうえ、それらは各氏族が自分の都合の良いように潤色している可能性が否定できないので、取り扱いには注意が必要。

まず度会氏。その系譜を明記した最初の文書が、鎌倉時代成立とされる『豊受太神宮禰宜補任次第とよけだいじんぐうねぎぶにんしだい』。これによれば、

「オオワクゴのミコト垂仁すいにん天皇二十五年、皇大神宮鎮座の時、大神主となった。」
「オオササの命:雄略ゆうりゃく天皇の御世の二所大神宮の大神主」
禰宜ねぎ外少初位下げのしょうしょいのげ・神主 兄虫えむし:天武天皇元年、神主の志己夫しこふが皇大神宮の禰宜に補され、兄虫が豊受大神宮の禰宜に任ぜられた。」
「禰宜神主君麿きみまろ:持統天皇元年に補任された。」

外宮鎮座の際には、内宮との二所の神主を度会氏一人で務めたとしており、天武天皇の時代になって、内宮と外宮それぞれに禰宜が置かれたがどちらも度会氏で、持統天皇の時代に、度会氏は外宮だけの禰宜となった、と主張している。ただし、「少初位」は『大宝令』によって改定(『続日本紀』大宝元年三月丙子)された位階で、これを天武朝の人物に当てていることからも、この文書の信憑性は推して知るべし。

荒木田氏のほうは、平安中期、神祇官に提出した系譜書『伊勢天照皇太神宮禰宜譜図帳いせあまてらすこうたいじんぐうねぎふとちょう(延喜七年(907))』に、

「アメノミトオスの命:神世の禰宜。」
「アメノフタユキの命:垂仁天皇の御世の禰宜。」
大貫連伊己呂比おおぬきのむらじいころい命:景行けいこう天皇の御世、居住している所によって大貫連おおぬきのむらじかばねを賜った。」
最上もがみ成務せいむ天皇の御世、功労によって荒木田のかばねを賜った。その理由は、大神の神饌料として三千代の御田を開墾し献じたので、姓を賜ったのである。」

と、神話の時代から一貫して内宮の禰宜だったと言っている。
また、出身地や荒木田のかばねの由来も判る。「大貫」の地は現在の度会郡度会町大野木おおのきに比定されている。新しく開墾したことで得たという名前から受ける印象は、新興勢力。だけどここは肥沃な玉城盆地を抱えるエリアで、実際はかなり古くからこの地に根を張っていたと考えられる。

それから宇治土公氏。荒木田氏・宇治土公氏らの報告書『儀式帳』に、こんな記述がある。

「(ヤマトヒメは)宇治土公うじのつちぎみらの先祖であるオオタの命に、『お前の国の名は何というのか』とお問いになった。すると、『度会の国です。この川の名は、伊須須いすずの川と申します。この川上に、大宮をかまえるのに良い地がございます』と答えた。そこで御覧になり、大御神が鎮座されるのに良い大宮地おおみやところとお定めになった。」

度会氏側が宇治土公氏の伝承を受け入れるのは、鎌倉時代に入ってから。『倭姫命世記やまとひめのみことせいき』に、

「時に、サルタヒコ神の子孫、宇治土公の先祖であるオオタの命が参った。」

とあり、その後「宮処みやところ」を献上するのは同じ。宇治土公氏はサルタヒコを祖神だとしているのだけど、『記』や『紀』の一書と『儀式帳』を組み合わせたような主張だ。鵜呑みにするわけにはいかないだろう。
ただ、荒木田氏も度会氏も、内宮の鎮座地を提供したのは宇治土公氏であることを、記している。どちらも誇張して、自分の手柄にしても良さそうなのにそうしないのは、甘受せざるを得ないほど動かしがたい事実として、認知されていたからなのかもしれない。仮にそうだとすれば、オオタを神格化したのがサルタヒコであり、宇治土公氏は、サルタヒコを奉斎する磯部の中から出てきた豪族であるとはいえそうだ。

三氏の主張には相反する事柄が含まれるけど、一致する部分は信用しても良いと思う。それを参考にし、豊受大神宮の成立背景も考慮に入れると――。
かつて磯部出身の小豪族がひしめく南伊勢において、度会氏が勢力を得た時期があったかもしれないけど、御饌都神みけつかみが伊勢大神に御神饌を捧げるように、度会氏も王権に服属した。力は抑え込まれたものの、外宮の地での祭祀は続けることを許された。
豊かな外城田川ときたがわ流域で力を付けていった荒木田氏は、地縁の無い内宮での祭祀を任された。
宇治土公氏は五十鈴川のほとりの土地を提供することになったが、内宮の祭祀には荒木田氏の下で携わることができた――といった具合だろうか。
推測を交えた一案ではあるけど、在地勢力を抑えつつ、神宮の祭祀は引き続き土豪たちが担うことを許容するという、王権が見せた采配の妙があったんじゃないかな。
奈良時代にはアマテラスという神名が宮廷内に定着していたとみられるけど、『儀式帳』には御祭神として、

天照坐皇大神あまてらしましますすめおおみかみ〈所称アマテラスオオヒルメのミコト〉」

と、平安時代に入ってもなお、神宮ではオオヒルメと呼ばれ続けていた。
「私たちのお祀りしている神さまは、あくまでもヒルメなのです」と、南伊勢の人々がささやかな抵抗をしていた……といったら、深読みが過ぎるだろうか。

地方で信仰されていた神さまを取り上げることがあった傍証として、もう一つ。
例えばイザナギ。海人族などが信仰するこの神さまは、皇祖神の親神にされてしまった。『記』・『紀』や『新撰姓氏録』を探しても、イザナギを祖神とする氏族は見当たらない。もしかしたら淡路島の地方豪族にはいたかもしれないけど、そんな記録は聞いたことがない。その一方で、阿曇あずみ氏の祖神ワダツミの誕生を神話に組み込むことで、海人族の長には配慮をしている。そのイザナギも伊勢大神と同様に、地方神としての顔をひょっこり出している。『允恭いんぎょう紀』に、

允恭いんぎょう天皇は淡路島へ狩りにおいでになったが、一匹も獲物を得られなかった。占いをされると、島の神が祟って、『獣が得られないのは、私の心によるものだ。赤石あかしの海底に真珠がある。その珠を私に供え祀れば、すべての獣を得られるだろう』と言われた。海人を使って真珠を入手できたので、島の神に供え、お祀りをして狩りをされた。すると、たくさんの獲物が得られた。」

淡路島で狩りをしたいなら真珠を供えよと、これまた皇祖神アマテラスの親神として似つかわしくない言動。
こんな風に、地方の有力神が皇統神話に取り込まれた形跡が、あちこちに透けて見えるんだよ。

最後に、式年遷宮しきねんせんぐうについて触れておこう。式年遷宮とは、一定周期で社殿を造り替え、新しい社殿に御神体を移すこと。伊勢神宮では20年ごとに催されている。
その始まりや年次に詳しいのは、内宮の禰宜である荒木田氏により書き継がれてきた『太神宮諸雑事記だいじんぐうしょぞうじき』。平安末期成立とされる。そこには、

「朱雀三年、宣旨せんじ状(天皇からの命令書)にて、二所大神宮の御遷宮の事は、二十年に一度、遷御に応じて奉れと仰せられた。」
「持統天皇即位四年、大神宮が御遷宮。同六年、豊受大神宮が遷宮。」

とある。「朱雀」は公式の元号ではないためその「三年」がいつなのか諸説あるものの、概ね天武朝のことと解釈されている。要するに、天武朝に式年遷宮の制度が定められ、持統朝に最初の遷宮が行われたというのだ。
これがほぼ通説化しているのだけど、由緒書が事の起こりを古く記す傾向からすれば、ことさら疑う必要はない、という。いやいやいや、史学というものは、どんな事柄でも労をいとわず、史料批判を徹底することが肝要だと思うんだよ。僕は学問には素人だけど、その理念は理解しているつもりだよ。

というわけで、他の史料には何と記録されているのかを見ていこう。まずここまで『紀』などを頼りに延々述べてきたように、持統天皇六年(692)の伊勢行幸の時点では、社殿はまだ存在しなかったと考えている。
「六国史」の中の式年遷宮の初見は、『続日本後紀しょくにほんこうき』嘉祥二年(849)。

「伊勢大神宮に神宝を奉じた。これは二十年に一度の儀式であり、慣例である。」

この頃慣例になっているということは、これまでに2回以上の遷宮が実施されたといえる。
『儀式帳』には、

「常に二十年に一度新しい宮に遷し奉る。」

とあるけど、その起源については記されていない。式年遷宮の始まりという神宮の重大事を書き漏らすなんて、この文書の性格からいってあり得ないだろう。ただ、遷宮の時に用意する「宝殿物十九種」の中に、

「金銅揣二基。〈右は延暦四年の宮遷しの際、神祇官の公文書に基づいた申し入れがあったので、供奉ぐぶされた。〉」

と注釈があり、延暦四年(785)には遷宮が行われたことが確実と思われる。
『儀式帳』の成立は延暦二十三年(804)。逆説的な言い方になるけど、この時は制度化したばかりで、初回となる式年遷宮を行ったのみだったとしたら、その起源についてはむしろ書かないほうが自然だと思う。つまり、桓武かんむ朝に至って式年遷宮は制度化されたんじゃないかな。斎宮制度の安定化も同じ頃だろうから、だいたいこの時期に、神宮の制度が整ったといえるだろうね。

繰り返しになるけど、伊勢神宮成立を巡っては諸説紛々としている。そのうえで、偉大な諸先生方の論考から取捨選択し、自分の解釈も加えて整理してみたに過ぎない。これが唯一絶対の正解では、もちろんない。
ただ、自分のスタンスを持たないことには物事に向き合えないと思うから、無理を承知で一応の着地点を探ってみたんだよ。
日本神話や古代史にハマるきっかけをくれた伊勢神宮。ここまでどっぷり沼に浸かることになろうとは、あの頃は思いもしなかったよ。とても充実した日々を送っていますと、感謝をお伝えしに参ろう。

【参考文献】
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川部浩司『斎宮跡発掘調査報告 (V)』斎宮歴史博物館,2023年
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桜井勝之進『伊勢神宮の祖型と展開』藝林会,1992年
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直木孝次郎「伊勢神宮」『日本古代の氏族と天皇』塙書房,1964年
西田長男「伊勢神宮の剏祀」『日本神道史研究 (8) 神社編 上』講談社,1978年
西宮秀紀『伊勢神宮と斎宮』岩波書店,2019年
林一馬『伊勢神宮及び大嘗宮に関する建築史的研究』,1999年
穂積裕昌『伊勢神宮の考古学 増補版』雄山閣,2023年
松前健「大嘗祭と記紀神話」『古代伝承と宮廷祭祀』塙書房,1974年
黛弘道「海人族と神武東征物語」『研究年報 (28)』学習院大学文学部,1982年
溝口睦子『王権神話の二元構造』吉川弘文館,2000年
溝口睦子『アマテラスの誕生』岩波書店,2009年
毛利正守「古事記の構想」『古代学 (5)』奈良女子大学古代学学術研究センター,2013年

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