アマテラスと伊勢神宮の成立について考察してみた~後編
2024年5月24日金曜日
05:00

では、伊勢神宮(
「
しかし、天皇は諫めに従われず、遂に伊勢に行幸された。お通りになる
伊勢へ行幸しながら、伊勢神宮を参拝した形跡がないともいわれるけど、前年には藤原宮造営に着手している。そんななか、ただの旅行に出かけたとは思えない。亡き夫の
それじゃあ
と、天皇に重用された人物として名を連ねている。面白いことに、ここに登場したのとほぼ同じ氏族が、『
天武朝の重臣と比べて、大三輪氏と
伊勢神宮の成立過程を述べる前提として、『
「
なんとも不思議な話で事実と考えられないのは当然だけど、
ヤマトヒメの時に、「アマテラスが初めて天より降られたのが、五十鈴川のほとりに建てた
天武天皇の代に斎王として派遣された
『万葉集』に、その2年後の持統天皇十年(696)に亡くなった
という一節がある。ここでいう「渡会 の斎宮 ゆ神風 に
その後、持統天皇は孫に譲位し、
「
とあり、多気郡
「同年九月十日、
そして最後の総仕上げ。
「同年十二月二十九日、
斎王に
天武・持統朝に伊勢神宮が成立したとすれば、ヤマトヒメの
天武天皇の軍勢は、大和の
伊勢神宮では様々な年中行事が催されるけど、中でも本祭と目されているのが、
「・
「・
と規定されている。『延喜式』「伊勢大神宮式」はもう少し詳しい。
「四月 九月 神衣祭
右、
ここに、斎宮のある地域を支配していた麻続氏と
さらに斎宮周辺からは、6世紀中葉から8世紀後半に及ぶとされる、多数の
『
「モモソヒメ・
という。この「
機織りの神格を持つと考えられるヨロズハタトヨアキツシヒメは、
それに何より、神衣を織る女神の姿は、ヒルメとも重なる。ある意味、アマテラスの分身ともいえるのだ。

1つには、『垂仁紀』のアマテラスの神託にて、
「この
と称えられるように、理想郷と観念されていたこと。大和から、日が昇る東へ向かって海に出る場所が、伊勢だ。現在でも、
2つ目は、天皇と皇族を中心とした政治(いわゆる
3つ目としては、東国への入口という地政学的な重要性。
雄略朝になると伊勢に関する記事が増えるとの指摘があるけど、南北に長いこの国にあってその舞台は北が中心だ。あるいは、内宮が提出した公式文書『
では南伊勢で着目したいのがどこかというと、
「
とある。『
「
とある。「続麻」は「麻続」の誤字だろうから、伊勢国多気郡麻績郷のことで、櫛田川右岸下流域に広がるエリアだ。また、持統太上天皇は晩年
ますらをが さつ矢手狭み 立ち向かひ 射る(雄々しい男が、矢を指に挟み、立ち向かい、射るという円方の浜は、見るからに清々しい)円方 は 見るにさやけし
これらを総合すると、櫛田川下流域には的の形に似て円形をした天然の良港があり、そこは大型の外洋船も停泊可能で、
的形港は、古墳時代から機能していた可能性が指摘されている。となれば、天武・持統朝はもちろんのこと、大規模祭祀場を設けさせるなど伊勢への関与を強めた5世紀頃、王権がこの地を重視した理由の一つとしても挙げられるね。考古学的にも、的形を望む位置に
それに、櫛田川右岸下流域といえば斎宮地域でもあり、麻続氏や服部氏の勢力圏。『
「右京・神別:
「大和国・神別:
とあり、畿内に同族がいることが知られる。その一部が港湾管理のために移り住んだのかもしれないし、
さらに『皇太神宮儀式帳』には、
「
という記事もあり、伊勢神宮の神領である多気郡から、飯野郡を分割したことが判る。当地域の勢力を削ぐのが目的とみられるけど、飯野郡の範囲には的形が含まれる。主力港を奪われたことはダメージが大きかったろうし、王権としてはこの港を完全に自分たちの物としたかったんだろうね。

でも、あり得るんだね……硬軟両様のしたたかな王権の施策が、ここにあった。
伊勢神宮の祭祀を実際に担ったのは、
伊勢地方の事情となると、比較的新しい文献に頼らざるを得ないうえ、それらは各氏族が自分の都合の良いように潤色している可能性が否定できないので、取り扱いには注意が必要。
まず度会氏。その系譜を明記した最初の文書が、鎌倉時代成立とされる『
「オオワクゴの
「オオササの命:
「
「禰宜神主
外宮鎮座の際には、内宮との二所の神主を度会氏一人で務めたとしており、天武天皇の時代になって、内宮と外宮それぞれに禰宜が置かれたがどちらも度会氏で、持統天皇の時代に、度会氏は外宮だけの禰宜となった、と主張している。ただし、「少初位」は『大宝令』によって改定(『続日本紀』大宝元年三月丙子)された位階で、これを天武朝の人物に当てていることからも、この文書の信憑性は推して知るべし。
荒木田氏のほうは、平安中期、神祇官に提出した系譜書『
「アメノミトオスの命:神世の禰宜。」
「アメノフタユキの命:垂仁天皇の御世の禰宜。」
「
「
と、神話の時代から一貫して内宮の禰宜だったと言っている。
また、出身地や荒木田の
それから宇治土公氏。荒木田氏・宇治土公氏らの報告書『儀式帳』に、こんな記述がある。
「(ヤマトヒメは)
度会氏側が宇治土公氏の伝承を受け入れるのは、鎌倉時代に入ってから。『
「時に、サルタヒコ神の子孫、宇治土公の先祖であるオオタの命が参った。」
とあり、その後「
ただ、荒木田氏も度会氏も、内宮の鎮座地を提供したのは宇治土公氏であることを、記している。どちらも誇張して、自分の手柄にしても良さそうなのにそうしないのは、甘受せざるを得ないほど動かしがたい事実として、認知されていたからなのかもしれない。仮にそうだとすれば、オオタを神格化したのがサルタヒコであり、宇治土公氏は、サルタヒコを奉斎する磯部の中から出てきた豪族であるとはいえそうだ。
三氏の主張には相反する事柄が含まれるけど、一致する部分は信用しても良いと思う。それを参考にし、豊受大神宮の成立背景も考慮に入れると――。
かつて磯部出身の小豪族がひしめく南伊勢において、度会氏が勢力を得た時期があったかもしれないけど、
豊かな
宇治土公氏は五十鈴川のほとりの土地を提供することになったが、内宮の祭祀には荒木田氏の下で携わることができた――といった具合だろうか。
推測を交えた一案ではあるけど、在地勢力を抑えつつ、神宮の祭祀は引き続き土豪たちが担うことを許容するという、王権が見せた采配の妙があったんじゃないかな。
奈良時代にはアマテラスという神名が宮廷内に定着していたとみられるけど、『儀式帳』には御祭神として、
「
と、平安時代に入ってもなお、神宮ではオオヒルメと呼ばれ続けていた。
「私たちのお祀りしている神さまは、あくまでもヒルメなのです」と、南伊勢の人々がささやかな抵抗をしていた……といったら、深読みが過ぎるだろうか。
地方で信仰されていた神さまを取り上げることがあった傍証として、もう一つ。
例えばイザナギ。海人族などが信仰するこの神さまは、皇祖神の親神にされてしまった。『記』・『紀』や『新撰姓氏録』を探しても、イザナギを祖神とする氏族は見当たらない。もしかしたら淡路島の地方豪族にはいたかもしれないけど、そんな記録は聞いたことがない。その一方で、
「
淡路島で狩りをしたいなら真珠を供えよと、これまた皇祖神アマテラスの親神として似つかわしくない言動。
こんな風に、地方の有力神が皇統神話に取り込まれた形跡が、あちこちに透けて見えるんだよ。

その始まりや年次に詳しいのは、内宮の禰宜である荒木田氏により書き継がれてきた『
「朱雀三年、
「持統天皇即位四年、大神宮が御遷宮。同六年、豊受大神宮が遷宮。」
とある。「朱雀」は公式の元号ではないためその「三年」がいつなのか諸説あるものの、概ね天武朝のことと解釈されている。要するに、天武朝に式年遷宮の制度が定められ、持統朝に最初の遷宮が行われたというのだ。
これがほぼ通説化しているのだけど、由緒書が事の起こりを古く記す傾向からすれば、ことさら疑う必要はない、という。いやいやいや、史学というものは、どんな事柄でも労をいとわず、史料批判を徹底することが肝要だと思うんだよ。僕は学問には素人だけど、その理念は理解しているつもりだよ。
というわけで、他の史料には何と記録されているのかを見ていこう。まずここまで『紀』などを頼りに延々述べてきたように、持統天皇六年(692)の伊勢行幸の時点では、社殿はまだ存在しなかったと考えている。
「六国史」の中の式年遷宮の初見は、『
「伊勢大神宮に神宝を奉じた。これは二十年に一度の儀式であり、慣例である。」
この頃慣例になっているということは、これまでに2回以上の遷宮が実施されたといえる。
『儀式帳』には、
「常に二十年に一度新しい宮に遷し奉る。」
とあるけど、その起源については記されていない。式年遷宮の始まりという神宮の重大事を書き漏らすなんて、この文書の性格からいってあり得ないだろう。ただ、遷宮の時に用意する「宝殿物十九種」の中に、
「金銅揣二基。〈右は延暦四年の宮遷しの際、神祇官の公文書に基づいた申し入れがあったので、
と注釈があり、延暦四年(785)には遷宮が行われたことが確実と思われる。
『儀式帳』の成立は延暦二十三年(804)。逆説的な言い方になるけど、この時は制度化したばかりで、初回となる式年遷宮を行ったのみだったとしたら、その起源についてはむしろ書かないほうが自然だと思う。つまり、
繰り返しになるけど、伊勢神宮成立を巡っては諸説紛々としている。そのうえで、偉大な諸先生方の論考から取捨選択し、自分の解釈も加えて整理してみたに過ぎない。これが唯一絶対の正解では、もちろんない。
ただ、自分のスタンスを持たないことには物事に向き合えないと思うから、無理を承知で一応の着地点を探ってみたんだよ。
日本神話や古代史にハマるきっかけをくれた伊勢神宮。ここまでどっぷり沼に浸かることになろうとは、あの頃は思いもしなかったよ。とても充実した日々を送っていますと、感謝をお伝えしに参ろう。
【参考文献】
青木紀元「降臨神話の展開」『日本文学研究資料叢書 日本神話』日本文学研究資料刊行会,1970年
大西源一「両宮の禰宜と荒木田・度会二氏」『大神宮史要』平凡社,1960年
岡田精司『古代王権の祭祀と神話』塙書房,1970年
川添登『伊勢神宮』筑摩書房,2007年
川部浩司『斎宮跡発掘調査報告 (V)』斎宮歴史博物館,2023年
倉塚曄子「伊勢神宮の由来」『古代の女』平凡社,1986年
桜井勝之進『伊勢神宮の祖型と展開』藝林会,1992年
下出積與「8世紀代の伊勢神宮」『明治大学人文科学研究所紀要 (16)』明治大学人文科学研究所,1978年
新谷尚紀「伊勢神宮の創祀」『国立歴史民俗博物館研究報告 (148)』国立歴史民俗博物館,2008年
筑紫申真『アマテラスの誕生』講談社,2002年
寺川眞知夫「タカミムスヒ・アマテラス・伊勢神宮」『万葉古代学研究所年報 (5)』奈良県立万葉文化館,2007年
直木孝次郎「伊勢神宮」『日本古代の氏族と天皇』塙書房,1964年
西田長男「伊勢神宮の剏祀」『日本神道史研究 (8) 神社編 上』講談社,1978年
西宮秀紀『伊勢神宮と斎宮』岩波書店,2019年
林一馬『伊勢神宮及び大嘗宮に関する建築史的研究』,1999年
穂積裕昌『伊勢神宮の考古学 増補版』雄山閣,2023年
松前健「大嘗祭と記紀神話」『古代伝承と宮廷祭祀』塙書房,1974年
黛弘道「海人族と神武東征物語」『研究年報 (28)』学習院大学文学部,1982年
溝口睦子『王権神話の二元構造』吉川弘文館,2000年
溝口睦子『アマテラスの誕生』岩波書店,2009年
毛利正守「古事記の構想」『古代学 (5)』奈良女子大学古代学学術研究センター,2013年
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黛弘道「海人族と神武東征物語」『研究年報 (28)』学習院大学文学部,1982年
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